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別離6

 夜が明けた。  山の緑は朝露に濡れ、空には薄く霞がかかっている。前夜の騒動が嘘かのように、静かな朝だった。  博嗣は、岩陰の前に1人膝をついていた。  そこは、真夏と幾度となく言葉を交わした場所。初めて名を呼ばれ、名を返し、抱きしめ合った、たったひとつの「始まりの場所」だった。  その前に、真夏の亡骸はもうない。夜のうちにどこかへ移されたのだろう。  博嗣は、真夏が最後に倒れたその場所を永遠の祈りの場と定めた。 「高光」  背後に控えていた臣下の高光がすっと頭を下げる。  博嗣の傍に付き従い、鬼の中でも頭脳派で知られる、とても賢い臣下で博嗣は高光を信頼していた。 「この山の奥。我らが住まう谷を覆うように再度結界を張れ。外の者は容易に立ち入れぬよう。しかし、真夏の出入りは妨げぬ結界を」 「しかし、また陰陽師に結界を破られるのでは?」 「そうしたら再度張ればいい」 「かしこまりました」 「ただ。真夏が再びこの山に還ることがあれば、真夏だけは通してくれ」  高光は何か言いたそうな顔をしていたが、すぐに表情を隠した。 「承知しました。真夏さまには全て道を開けましょう」  博嗣は小さく頷き、再び岩陰を見つめる。そして昨夜作った白木の祠を岩の前に置いた。  真夏が好みそうな香りのする木を博嗣は山中で探し当て、自ら削って作ったものだった。  鬼の造りではなく、人の風習に倣い、ひとつひとつ丁寧に。真夏が親しんできたやり方で。  屋根には苔むした石を使い、白木の支柱が岩に溶け込むように並ぶ。その中に、真夏を模した小さな人形をそっと置いた。真夏が最後に着ていた緋色の狩衣を思わせる布が小さく結ばれている。  風が通り、ふわりと沈香の香りが流れた気がした。まるで真夏の声が微かに届いたような気がして、博嗣はそっと目を閉じた。 「真夏。お前が守ったこの山で、お前が願った未来を待っている。そして、お前が再度私に会いに来るのを待っている」  その言葉は自分に言い聞かせるようでもあり、祠に語りかけるようでもあった。  博嗣は深く深く頭を下げた。  それは鬼の帝としてではなく、真夏と心を通わせたたった1人の”博嗣”として、真夏に捧げる祈りだった。  そして、しばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、博嗣は山を振り返り、ゆっくりと歩を進める。  背後で高光が結界を張っているのがわかった。  山の空気が微かに震える。  結界が張られる。もう外の者が自分たち鬼の場所に足を踏み入れないように。  博嗣はもう祠を振り向くことはせず、前を向いていた。  真夏が命をかけて繋ごうとした未来へ。そして、いつの日か再びその名を呼べる日が来ると信じて。  ――博嗣さま。  どこかで真夏の声が聞こえてきた気がした。そして博嗣は目を閉じた。 

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