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鬼の記憶3

 旅館の人にタクシーのことを訊くと、予約をしてくれるという。なので9時半に迎えに来て貰うように頼んだ。  これなら1日で元伊勢を回ることができる。1日貸し切るとなると料金が気にならないでもないけど、京都とはいえ、この田舎町ではバスや電車の本数はとても少ないので、時間を買うことを考えたらタクシーもさほど高いとは言えない。 「そろそろ寝ようか」  部屋の時計が23時半を回って、真夏がいう。   「そうだな。明日はそんなに早く出るわけじゃないけど、朝食のことがあるから寝坊はできないからな」 「うん。おやすみ」 「おやすみ」  窓の外では虫の音が微かに聞こえる。  昼間の暑さが嘘のように、静かでひんやりとした空気が部屋を満たしている。  浴衣姿で布団に横になっている真夏は、天井をぼんやりと眺めながら胸の奥のざわめきを持て余していた。  何かを思い出しそうで思い出せない。  あの笛の音。あの香り。あの、一瞬苦しくなるような感覚。 「会いたい……」  兼親に聞こえないように小さく呟いたその言葉は、まるで鍵のようだった。  ゆっくりと瞼が落ちていき、真夏の意識は静かに夢へと沈んでいった。  風の音がする。  けれど、どこか現実とは違う。遠い昔。  森のような、山のような、緑に包まれた静かな空間に真夏は立っていた。  そこには見覚えのある岩。苔むした祠。  けれど、それ以上に目が離せなかったのは…… 「……あ」  銀の髪を風になびかせ、背を向けて立つその人の姿だった。  懐かしい。名前も知らない。けれど、確かに知っている。  そう。ずっと、ずっと探していた。 「待って! 行かないで!」  どこかへ行ってしまいそうになって、真夏は声を張り上げた。  走り出す。足元の草が音を立てる。けれど、その背はほんの少しだけ遠ざかって行く。 「ずっと……ずっとあなたを探していたんだ」  その背がふと止まり、こちらを振り向く。そこには夢で何度も見てきた面影があった。今までははっきりと見えていたわけじゃない。けれど、この人だと確信があった。  冷たいようで、どこか悲しげな眼差し。けれど、確かに自分を見てくれている。 「どうして? どうして夢の中でしか会えないんですか?」  涙が出そうだった。苦しくて、愛おしくて。何かが張り裂けそうだった。 「名前も思い出せない。過去もわからない。でも……でも、あなたが俺にとって特別だということはわかる」  顔を歪め、懇願するように真夏は言葉を投げた。 「お願い。会いたい……。現実でも会いたいんです」  銀色の髪の人――彼は、しばらく黙っていた。  けれど、やがてゆっくりと歩み寄る。そして、真夏の頬にそっと手を伸ばす。 「……お前が望むなら」  その囁きは風のように優しく、深く、真夏の胸に染みこんだ。  そして次の瞬間、景色がゆっくりと崩れはじめた。  草も、木も、空も。全てが霧のように消えて行く。 「待って!」  手を伸ばしたが、もうその姿は見えない。  でも、最後の言葉は、耳に、心に確かに残っていた。  ――お前が望むなら。  目を覚ました時、真夏は頬に残る熱を感じていた。  胸の奥にぽつりと小さな光が灯った気がした。

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