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鬼の記憶7
翌朝、空は薄曇りで、夏の湿気を含んだ風が穏やかに吹いていた。真夏と兼親は大江山の麓にある、日本の鬼の交流博物館へと足を運んでいた。
もっと小さいと思ったけれど、日本の鬼だけでなく世界の鬼についても扱っているため、それなりに広かった。
館内は地域に伝わる鬼伝説にまつわる資料や、各地の鬼面、鬼に関する絵巻や民話の記録などが所狭しと並べられていた。
真夏はその一つ一つを丁寧に見て回った。世界中から集められた鬼の面は、怒りに満ちたもの、悲しみに沈んだもの、表情も情景も色々だった。
「こうして見ると鬼って一言で言っても随分違うんだな」
兼近が感心したように呟いた。
「うん。怖いのも当然あるんだけど、人間臭いのも多いね。誰かを見てる気がする」
ぽつりと口に出して、自分でハッとする。まるで目があっているように感じる面がある。赤や青、黒、木地のままのものもある。どの面にも魂が宿っているような生々しさがあった。
しかし、どれだけ見ても、心の奥がこれだ! と震えることはなかった。見覚えのある顔、記憶に引っかかるような面。そういうものには出会えなかった。
(ここじゃないのかもしれない。)
真夏はそんなことを思いながら、展示の奥にある一角へと歩を進めた。そこには大江山に伝わる酒呑童子伝説が詳細に展示されていた。
鬼たちの頭領であったという酒呑童子。その異能、その退治にまつわる説話、源頼光と四天王による成敗、その顛末を描いた絵巻や再現された衣装、武器などが並ぶ。
鬼の中でもひときわ有名で、そして、”悪”として語られる存在。酒呑童子。
真夏はじっとその面を見つめた。巨大な角、猛々しい目つき、裂けたような口。絵巻の中の彼は、確かに人を襲う恐ろしい存在として描かれている。
でも、胸の奥が騒ぐことはなかった。怖いとも、懐かしいとも思わない。ただ、どこか遠い世界の物語を見ているような、冷めた気持ちがあるだけだった。
「……ピンとこない?」
隣から兼近がそっと声をかけた。真夏は頷く。
「うん。すごく興味深いし、迫力あるけど、でも違う。これじゃないって感じがする」
「じゃあ、酒呑童子じゃないんだな。真夏が夢で見てる人は」
「うん、多分……。でも、ここじゃない鬼が確かに、どこかにいる気がするんだ」
真夏がそう言った時、展示の脇にある細い通路から何かが聞こえてきた。
ヒューヒューと風が吹き抜けるような高く細い音。笛の音だった。
「!」
真夏はその場で立ち止まり、音のする方へと顔を向けた。
「今、笛の音、聞こえた?」
「え? 聞こえないけど?」
兼親は首を傾げたが、真夏の耳には確かに笛の音が届いていた。龍笛のような、どこか寂しげで、けれど芯のある音色。
まるで夢の中で聞いたあの音だ。真夏の胸が一瞬で高鳴った。
いくら笛が展示されているからって、笛の音が聞こえるのなんておかしいと思った。
視界の端が揺れた気がした。展示室の薄暗い照明が、ふと夏の夕暮れのような色に変わった気がした。
風もないのに髪が揺れた。誰かが近くを通ったような気配。だけど、そこには誰もいなかった。ただ、笛の音だけが耳の奥に残っていた。
「夢と同じ、音……」
笛の音はすぐに止んだ。
「真夏?」
「なんでもない。ただ、今、すごく懐かしい音がした気がしたんだ」
そう言いながらも真夏の胸奥には、確かな何かが残っていた。
鬼たちの中に混じっていた声なき思い。笛の音に込められた誰かが呼ぶような気配。
ここにも、何かの断片があった。
思い出せないままに、それでも確かに存在する何か。
真夏は静かに息を吐きながら次の展示へと歩を進めた。
次の展示は笛だった。楽器に明るくないから、その笛がなんという笛かはわからないけれど、和楽器だということはわかる。雅楽で使われる楽器だろうことはなんとなくわかる。
でも、その笛が真夏の心を揺らした。この笛を見たことある。
「この笛……」
「この笛がどうかしたのか?」
「懐かしい……」
「これ、雅楽で使われる笛だろう? 真夏、雅楽なんてやってないし、ましてや笛なんてやってないのに」
「うん。そうなんだけど……誰かが吹いているのを見たことがある気がする。ううん。夢で見た。何回も」
夢で見たということは銀髪の人だ。そういえば、前に、夢で笛を吹いていた。そうだ。その笛がこれだ。
なんでそれが鬼の交流博物館にあるのかはわからない。わからないけれど、真夏はその笛の前から動けなかった。
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