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鬼の記憶8

 翌朝、まだ朝露の残る中、真夏と兼親は大江山の登山口に立っていた。  昨日までの湿気を含んだ空気は夜の雨のおかげで少しだけ和らいでいた。舗装された道はやがて砂利道へと変わり、さらに進むにつれ、木の根が露出した登山道となっていく。 「思ったより静かだな。観光客、もっといるかと思った。これからなのかな?」 「そうだね。でも、この静けさ、嫌いじゃない。むしろ落ち着く感じがする」  登につれて、蝉の声の他に、鳥のさえずりが耳に入ってくる。  ふと真夏は足を止めた。  風に混じって、微かに笛のような音が聞こえた気がした。しかし、それはすぐに風にかき消される。音ではなかったのかもしれない。ただ、自分の心の奥で何かが囁いたような、そんな間隔だった。 「真夏?」 「あ、ああ。ごめん。なんでもない。ただ……なんかこの辺知ってる気がして」  兼親が不思議そうに眉をひそめる。 「来たことあるのか? 初めてだよな?」 「来たことはないよ。だけど、懐かしい感じがするんだ。あの岩。何度も見たような気がする」  真夏が手で示した先にあるのは、苔むした大きな岩だった。  記憶にある風景、というにはあまりに朧で、けれど確かに心がざわつく。初めて訪れたはずの山なのに、どこかに自分の一部が置き去りにされていたような、そんな感覚。  ふと風が吹き抜けた。  風の匂いに、真夏は一瞬、強い既視感を覚えた。山の土と、樹皮の香りに混じって、どこかで嗅いだような、少し甘くて、でも煙のように深い香り。 (お香?)  思わず目を細める。どこからともなく漂ったその香りは一瞬で消えた。けれど、心の奥に残る感覚だけははっきりとした痕跡を残していった。 「なあ、真夏。この旅でなにか思い出した?」  不意に兼親が訊ねた。  真夏は少し迷ってからゆっくりと頷いた。 「断片的に、だけど。夢の中の風景がこの山と繋がってる気がする。きっと銀髪の人と、ここで何かあったんだと思う」  彼の姿はどこにもない。気配も感じない。  でも、山そのものがまるで真夏の記憶の器のように、真夏の心を静かに震わせた。  2人は再び歩きはじめる。柔らかな陽光が木々の合間から差し込み、足元に淡い影を落とす。時間がゆっくりと、そして静かに流れていく。  銀色の髪の人には会えなかった。でも、それでも構わない。会えるとは思っていなかった。でも、きっとこの道の先にまだ何かが待っている。そう信じたくなるような優しい風が真夏の頬を撫でて過ぎていった。 「でも、収穫があったのなら良かったな」 「ああ、おかげで。兼親のおかげだよ。この山に登ってみようって言ったのは兼親だから」 「まぁ、何か思い出すかは別としてさ、銀髪の人は繰り返し夢に見るんだし、子供の頃から鬼に反応してたし。そしたら、ここに来たら何かわかるんじゃないかってさ、思うじゃん」 「そうだな。その読みは当たってたみたいだ」 「じゃあ、今度夢を見たら、また違う何かを思い出すかもしれないな」 「そうだといいな。今まで、わからなさすぎたよ」  子供の頃から繰り返し見ていたのだ。わけもわからず、ただ同じ夢を見る。どんな意味があるんだろうかと、ずっと気になっていた。  でも、どうやったら何かがわかるのかがわからなさすぎた。そのキーワードを探してくれたのは兼親だ。真夏1人ではここまでたどり着けなかっただろう。 「まぁ、何か手がかりになるものがあったみたいだし、もう少し歩いて見ようぜ。鬼の足跡があるみたいだぞ」 「鬼の足跡? 面白いね」 「鬼のモニュメントもあるし、すごいよな」 「ほんとに、いたのかな……」  本当に鬼はいたのだろうか。あの銀髪の人は人間なのだろうか。それとも……。  鬼なんているはずがない。だから酒呑童子にだって何とも思わない。でも、あの人は、どこか人間離れしている。そう感じる。あの人こそ、鬼なのだろうか。夏の風に吹かれながら、そんなことを考えた。

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