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忘れられたもの2

 旅館に荷物を置き、一息ついたあと、大江の町を少し歩こうということになった。夏の夕暮れはまだ明るく、山の稜線が金色に縁取られて見える。  緑の濃い木々の間から蝉の声が聞こえていたが、それもどこか遠く、町全体が不思議と静まり帰っているようだった。  そのときだった。隣を歩いていた真夏が、ふと立ち止まる。 「今、笛の音が聞こえた気がする」  その声はさほど大きくなかったが、やけに真に迫っていた。冗談ではなく、本当に聞こえたと信じているのが伝わってくるような声だった。  兼親は耳を澄ましたが、何も聞こえない。ただ風が木々を揺らしている音がするだけだ。 「どんな音だった?」  思わずそう聞き返した。真夏は少しだけ眉を寄せて、でも目はどこか遠くを見ていた。 「懐かしい感じがした。優しくて、胸の奥を締め付けるような……。なんでか泣きそうになった」  そう呟く横顔は、やっぱりどこか嬉しそうで、でも切なげでもあった。まるでずっと会いたかった誰かの気配をようやく見つけたかのような、そんな顔をしていた。  胸の奥がざわつく。ずっと昔から感じていた名前のない不安が再び、静かに息を吹き返すのを感じた。  真夏は今、この土地で何かを思いだし始めている。  夢に出てくる銀髪の人と、この場所で何かがあった。そんな予感を本人も感じているのだろう。これまでも「夢で見た気がする」と呟くことは何度かあったけれど、今日の真夏は何かが違っていた。言葉の奥に確信のようなものが混ざっていた。 (このまま思い出したら、真夏は……。)  自分の手の届かない場所へ行ってしまうかもしれない。そう思うと胸が軋むように痛んだ。けれど、そうであっても止めることはできないともわかっていた。  真夏の中に眠っていた何かが、この地へ来たことで動き出した。それはもう、引き返せるものではないのだ。 「本当に聞こえたんだな」  そう呟くと真夏は、わずかに微笑んだ。 「でも、不思議だよね。あんな音初めて聞いたのに、どうして懐かしいんだろう」  兼親は何も言えなかった。ただ、その横顔をじっと見つめた。  もしもその笛の音が、真夏の過去を呼び起こすものだとしたら。  もしも、あの夢の中の誰かが本当に存在しているのだとしたら。  自分はどうしたらいいのだろう。 (思い出して欲しくないなんて、本当は思っちゃいけないんだ。)  そんなの、ただの自分勝手だ。でも、願わずにはいられなかった。 (せめて、自分のことは忘れないでいてくれ。)   (せめて、この現実にある俺たちの時間を、どこかで大事に思っていてくれ。)  風が再び木の葉を揺らす。どこかから、蝉の声に混じって、不意に一瞬だけ、耳の奥に音が響いた気がした。  澄んだ、遠い笛の音。  気のせいかもしれない。けれど、真夏の横顔がその瞬間、涙を堪えているように見えた気がした。  何も言わずにそっとその隣に立つ。それしか出来ない自分の無力さが苦しい。でも、それでも……。 (隣にいさせてくれ。)  心の中でそう願いながら、兼親は静かに歩く真夏の背を追った。  

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