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忘れられたもの3
天岩戸神社から帰ろうと鳥居をくぐった時、真夏は足をとめて、すぐ脇にある小さな祠をじっと見つめていた。
「知ってる……ここ、知ってる」
そう呟いた真夏の声は、ほんの少しだけ震えていた。兼親は隣に立ちながら、どう言葉をかけるべきか迷った。
静かに風が吹き、木々の葉がざわざわと揺れる。鳥の声ひとつ聞こえない、不思議な静けさだった。
「ここで、来たことがある気がする」
ぽつりと落とされたその言葉に、兼親の胸がざわついた。
いつの記憶? そう聞きたいのに、その問いを口にすることが出来なかった。
真夏の視線は、祠の奥を通り超して、どこか遠くを見ていた。その目が、今ここにいない誰かを追っていると感じた。
「名前、なんだっけ……」
風の音に混じるように、真夏の口から微かな声がこぼれる。
「銀の、髪の……」
その言葉の端々が、記憶の底からこぼれ落ちてくる雫のように、静かに、しかし確実に現実を侵食していっている。
「誰かと来た……」
祠に手を添えながら、そう呟く真夏の姿が、一瞬、知らない誰かに見えた。今、ここにいるのに、ここにいない。自分の手の届かない場所へ心だけがすっと遠のいていく。
兼親は思わず口を開きかけた。名前を呼んで、この手で引き戻したかった。けれど、声にならなかった。
(どこかで見た光景だ。)
真夏の背中を見つめながら、胸の奥で何かが軋む。この背中を。こんな真夏を何度も言葉もなく見つめたことがある。遠い昔に……。
「兼親?」
不意に名を呼ばれて、現実に引き戻された。祠に触れていた真夏は、今は自分の方を見ていた。さっきまでの遠いまなざしは消え、困ったように微笑んでいる。
「ごめんね、変なこと言って。でも、なんかちょっと、思い出しかけたのかもしれない」
笑ってはいるけれど、その瞳の奥にはまだ揺れが残っている。
兼親は首を横に振った。
「……いいんだ。思い出しても、思い出さなくても。俺は、ずっと傍にいるから」
その言葉がどこから出てきたのか自分でもわからなかった。けれど、それだけは確かだった。
遠い記憶の中で誰かをじっと見つめていて、誰かを見送ったとしても、それはいつかのことで、今はここにいる。彼の名を呼ぶことができる。触れられる距離にいる。
真夏はほんの一瞬だけ目を見開いて、それからふと微笑んだ。
「……ありがとう。そろそろ行こうか。タクシー待たせてるし」
そう言って祠からゆっくりと離れた。その背中を見つめながら、兼親は小さく息を吐いた。
あの祠には何かが眠っている。真夏の記憶だけじゃない。自分の奥底にも、まだ触れていない何かが確かにある。そんな気がした。この旅では、真夏の記憶もだけど、自分の中の何かも目覚める。そんな気がした。
それでも……。それでも今は、この「ありがとう」があればいい。そう自分に言い聞かせながら兼親は真夏の後を追った。
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