45 / 99

忘れられたもの3

 天岩戸神社から帰ろうと鳥居をくぐった時、真夏は足をとめて、すぐ脇にある小さな祠をじっと見つめていた。 「知ってる……ここ、知ってる」  そう呟いた真夏の声は、ほんの少しだけ震えていた。兼親は隣に立ちながら、どう言葉をかけるべきか迷った。  静かに風が吹き、木々の葉がざわざわと揺れる。鳥の声ひとつ聞こえない、不思議な静けさだった。   「ここで、来たことがある気がする」  ぽつりと落とされたその言葉に、兼親の胸がざわついた。   いつの記憶? そう聞きたいのに、その問いを口にすることが出来なかった。  真夏の視線は、祠の奥を通り超して、どこか遠くを見ていた。その目が、今ここにいない誰かを追っていると感じた。 「名前、なんだっけ……」  風の音に混じるように、真夏の口から微かな声がこぼれる。 「銀の、髪の……」  その言葉の端々が、記憶の底からこぼれ落ちてくる雫のように、静かに、しかし確実に現実を侵食していっている。 「誰かと来た……」  祠に手を添えながら、そう呟く真夏の姿が、一瞬、知らない誰かに見えた。今、ここにいるのに、ここにいない。自分の手の届かない場所へ心だけがすっと遠のいていく。  兼親は思わず口を開きかけた。名前を呼んで、この手で引き戻したかった。けれど、声にならなかった。 (どこかで見た光景だ。)  真夏の背中を見つめながら、胸の奥で何かが軋む。この背中を。こんな真夏を何度も言葉もなく見つめたことがある。遠い昔に……。 「兼親?」  不意に名を呼ばれて、現実に引き戻された。祠に触れていた真夏は、今は自分の方を見ていた。さっきまでの遠いまなざしは消え、困ったように微笑んでいる。 「ごめんね、変なこと言って。でも、なんかちょっと、思い出しかけたのかもしれない」  笑ってはいるけれど、その瞳の奥にはまだ揺れが残っている。  兼親は首を横に振った。 「……いいんだ。思い出しても、思い出さなくても。俺は、ずっと傍にいるから」  その言葉がどこから出てきたのか自分でもわからなかった。けれど、それだけは確かだった。  遠い記憶の中で誰かをじっと見つめていて、誰かを見送ったとしても、それはいつかのことで、今はここにいる。彼の名を呼ぶことができる。触れられる距離にいる。  真夏はほんの一瞬だけ目を見開いて、それからふと微笑んだ。 「……ありがとう。そろそろ行こうか。タクシー待たせてるし」  そう言って祠からゆっくりと離れた。その背中を見つめながら、兼親は小さく息を吐いた。  あの祠には何かが眠っている。真夏の記憶だけじゃない。自分の奥底にも、まだ触れていない何かが確かにある。そんな気がした。この旅では、真夏の記憶もだけど、自分の中の何かも目覚める。そんな気がした。  それでも……。それでも今は、この「ありがとう」があればいい。そう自分に言い聞かせながら兼親は真夏の後を追った。  

ともだちにシェアしよう!