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忘れられたもの4

 日本の鬼の交流博物館に入った時、真夏の足取りがふと変わった。  空気が少し重たくなったような気がしたのは、ただの気のせいだろうか。  展示室の中はひんやりとしていて、どこか神聖な気配を纏っていた。展示棚には、鬼にまつわる古文書や絵巻、面、武具、そして音具が整然と並べられている。  そのひとつひとつを真夏はまるで何かに導かれるように目で追っていた。  最初はただ見ているだけだった。けれど、あるガラスケースの前で、彼の足がぴたりと止まった。 「これ……」  展示されていたのは、黒ずんだ古い笛だった。確か、雅楽で使われる笛のはずだ。  真夏の声が微かに震えていた。  その場に流れていた空気が、すっと張りつめるのを感じる。兼親は無意識に息を詰めた。  真夏は手を伸ばしかけて、けれど触れることなく拳を握った。 「夢で何度も見たことがある。これと同じ笛をふいていた人がいた。……銀色の髪の、男の人」  やっぱり出てきた。その言葉。  夢の中に出てくる”誰か”――兼親の知らない真夏だけの記憶。  それが目の前の現実と繋がってしまう瞬間を、今まさに目の当たりにしていた。  真夏の横顔には懐かしさと、痛みと、戸惑いが見えた。過去を追いかけるそのまなざしが、ひどく遠く感じた。届かない場所を見ている。自分には見えない誰かを想っている。  言いようのない焦燥が、胸の奥でじくじくと疼く。それでも口を挟むことはできなかった。今は何も言ってはいけない。  真夏の心が何かを確かめようとしている。それがどれだけ自分を置いてけぼりにしても、止めることなんてできなかった。 「これ……すごく大事な音だった気がする。聞くと安心してた。悲しいのに、ほっとする音」  真夏の声が小さく震えていた。目は潤んでいるようにも見えた。  兼親はただそっと隣に立ち、その横顔を見守るしかできなかった。 (きっと思い出してしまう。)  この先真夏は過去を取り戻していくのだろう。夢に出てきたその人への想いも、やがて確かなものになる。その時、自分はどうすればいいのだろう。  ふと真夏が兼親を見た。目は赤みを帯びていた。きっと泣いたのだろう。そして、こちらを見て照れたように笑う。 「なんか色々思いだしそうで少し怖い。でも、兼親がいてくれて良かったよ」  その一言だけで胸がいっぱいになった。願っていた言葉だった。どこかに行ってしまいそうな彼の心が、少しだけ戻ってきたような気がした。 「ずっといるよ」  気づけばそう答えていた。自分でも、少し声が震えているのがわかった。けれど、真夏はそれに気づかないのか何も言わずに、そのまま静かに笑ってくれた。  ガラス越しに眠る笛。その奥にある誰かとの記憶。  もし真夏がそれに手を伸ばしていくのなら、自分はその背中を最後まで見届けたいと思った。  例えその先に、自分のいない過去の世界があったとしても。  昨日の天岩戸神社。そして、この博物館。この2日間だけでも、真夏は何かを思い出しつつある。それに対して寂しさを感じないわけじゃない。それでも、その背中を最後まで見ようと思った。それが、自分にできる唯一のことだと思うから。そして、幸せになって欲しい。兼親はそう思った。

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