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忘れられたもの8

 夢の中で蝉の声を聞いていた。  暑いには暑いけれど、現代の猛暑とは違う暑さ。穏やかに吹く風が御簾を揺らしている。ひどく静かな夏の午後だった。  部屋の中には人がいた。座り込んでぼんやりと外を見ている青年。彼が着ている物から、平安時代だと察しがついた。  その顔には見覚えがあった。真夏だ。  何故、そう確信したかはわからない。でも、そうとしか思えなかった。  夢の中の真夏は、顔立ちこそ現代と似ているけれど、どこか憂いを含んでいて、白い指が袖の端を握っていた。  何を考えているのかわからない。けれど、真夏は時折、切ない表情を見せるのだ。その訳を兼親は知らない。ただ、誰かを想っている。それだけは確かだった。  正室である清音に対して気持ちが持てない、とぽつりと漏らしたのを聞いたことがあるからだ。 「それなら、側室を持てばいい。今の時代、珍しいものでもない」  そう言った兼親に、真夏はぽつりと言った。 「側室に持てるのならそうしたいけれど、無理なんだ」  そう言った真夏の顔はひどく悲しげで、見ているこちらの方が胸が締め付けられて辛かった。  しかし、側室に持てないとはどういうことなのか。そう考えてはたりと閃いた。 「相手は男か」  兼親がそういうと真夏は目を大きく見開いた。驚いているようだ。 「それなら、そうと言えばいいのに。別にどうということはないだろう」  そう。友情を超えた愛情など貴族社会にはありふれている。それに対して禁忌と思う必要はない。 「どこの誰だ? 私の知っている者か?」 「それは……」 「まあ苦しくなったら言え。聞くくらいはいつでも聞いてやる」 「ありがとう。兼親」  夢の中の真夏は小さく微笑んだ。けれど、そんな真夏を見ている兼親はと言うと、胸がちくりと痛んでいた。作り笑顔をする兼親に真夏は気づかない。  夢の中の自分は、微笑む真夏に、ただ頷くことしかできなかった。言葉を発したら何かが壊れてしまいそうで。  御簾の向こう、風に揺れる庭の草花を眺めながら、兼親はふと隣にいる真夏の横顔を見た。  手の届く距離にいるのに、その心は遠い。誰か別の人を想い、苦しんでいるその体を抱きしめることも出来ない自分が悲しかった。  それでも傍にいたかった。例え心に届かなくても、笑ってくれればそれでいいと――そう、夢の中の兼親は思っていた。    目が覚めると、部屋の中は朝の光に満ちていた。カーテンの隙間から差し込む陽射しが、どこか現実離れして見えた。  兼親はしばらく身動きせず、天井を見つめたまま呼吸を整えた。  胸の奥に、言いようのない切なさが残っていた。  夢の内容はすでにぼんやりとしていた。けれど、夢の中で隣にいた人が真夏だったことだけは、何故か確信していた。 (あんなふうに、隣にいるだけで良かったはずなのに。)  今の自分はどうだろうか。真夏の中で何かが変わり始めていることに、とっくに気づいている。あの旅の後、真夏は変わった。  夢のこと。記憶のこと。かつて誰かと交わした約束のこと。  自分には触れられない世界へ、彼が向かっている気がする。それが寂しいとはっきりと思った。  思い出してしまえば、真夏は夢の”誰か”を選ぶのだろう。そうして自分の立つ場所は、空っぽになってしまうんだろう。それでも……。 (俺は隣にいられるのならそれでいい。)  夢の中の自分のようにそう願ってしまうことが今は少しだけ寂しい。    

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