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囁く声1
夢を見ていた。夢、通っていた。もう数え切れないほど夢通った相手――真夏――と。
風が竹の葉を揺らしていた。ざわざわと淡い緑の波が夜の静けさの中で震えている。月は高く、それどその輪郭はどこか霞んでいて、光は地上の全てを柔らかく、曖昧に包み込んでいた。
この風景を博嗣は何回見ただろう。けれど、毎回、その一瞬一瞬が胸を締めつけるほど鮮やかだった。
夢の中だと知っていても、その空気の冷たさも、竹に触れた時のひんやりとした感触も、あまりに現実的すぎた。
静かな笛の音が夜の闇に震える。吹いているのは自分だった。手に持つ竹笛は、かつて幼い真夏が作ってくれたもの。歪で素朴なその笛を、博嗣は千年経っても手放さなかった。
(変わらないな……)
そう思った直後、竹の間から現れた姿に心が小さく揺れた。
夢の中でも彼は変わらない。違う時代を生きてはいても、同じ真夏という名だからか、夢の中の彼は昔と同じ真夏のままだ。
「その笛……」
真夏がぽつりと呟いた。その声に応えるように、博嗣は笛を下ろした。
「この笛を吹くと、お前のことを思い出す。夜の匂いとお前の声と」
真夏の目が博嗣を見つめ返す、怯えも拒絶もない。ただまっすぐに自分の存在を受け止めている。
「あなたは、鬼……なの?」
その問いはかつて1度も訊かれたことのない言葉だった。いや、1度、自分から鬼だと名乗ったことはあったか。それを今の真夏が覚えているかはわからないけれど。
そう言えば、角を見せたのは初めてだったかもしれない。赤い目も。
少しだけ寂しさが混ざる。それでも真夏の顔に”恐れ”はなく、ただ”確かめたい”という目だった。
「鬼だ。……人にとって私は鬼でしかなかった。例え半分でも血を引いているだけで、もう、そう呼ばれる存在だった」
半分違う血が入っている。ただそれだけで線を引かれる日々だった。
「でも、俺は……」
真夏の声は途切れる。それで十分だった。彼は鬼ではなく、”博嗣”として自分を見てくれた。今はまだ名前を思い出してはいないようだけど。
でも、真夏のその態度で何もかもが報われる気がした。
「お前は私を人間のように見てくれた。だから忘れられない。どんなに時を経ても」
例え現実で交わることができなくても、夢の中だけでも会えるのなら、それでいい。
けれど、そう願うことすら、どこか苦しくもある。
「じゃあ俺は鬼を好きになった人間ということになるのかな」
その言葉に博嗣の胸が震えた。
「お前が誰かなんてどうでもいい。人でも鬼でも。ただ、お前がお前でいてくれれば、それでいい」
また風が吹く。
笛が小さく鳴いた。まるで啼くように。
そして、空が白くなってきた。夢の終わりの合図だ。
博嗣は目の前の真夏を、去りゆく光の中で見つめていた。
「……」
目が覚めた時、天井はいつもの白だった。
カーテンは閉まっていて、隙間からほんのりと陽が差し込んでいた。
博嗣はゆっくりと息を吐き、額に手を当てる。胸が静かに痛んだ。
「また夢……か」
それでも会えたことは嬉しいことだった。
そして、ノックの音と共にドアが開いた。|良子《よしこ》だった。
「おはようございます、帝。お目覚めでしょうか」
静かな身のこなしで部屋に入り、いつも通りの手際でカーテンを開ける。
朝の光が少し強くなり、夢の余韻がじわりと遠ざかって行く。
「帝はやめてくれ。もう鬼も数少ない」
「いいえ。それでも帝は帝です。……あの、もしかして夢を……?」
良子は問いかけながらも既に確信を持っているようだった。
博嗣は目を閉じて小さく笑った。
「そうだ。また真夏に会った」
「現では……お会いにならないのですか?」
良子の問いは静かだった。そして優しさと、ほんの少しの憂いが混ざっていた。博嗣はゆっくりと首を振る。
「会ったら、真夏を不幸にする」
その声には悲しみが宿っていた。
「あいつが鬼で私が人間なら良かった。でも逆だ。私の存在があいつの人生を壊す。あの時のように」
だから夢でしか会わない。それが博嗣ができる唯一の優しさだった。
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