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囁く声2
「会ったら、真夏を不幸にする」
口にしたその言葉は、静かな部屋の中で沈んだ鐘の音のように、心の奥へと響いていった。
博嗣は窓辺に歩み寄り、薄く開いたカーテンの隙間から朝の光を浴びる。
ぼんやりと遠くを見る視線が見ていたのは、さっきまでいた夢の中の竹林。そして、その奥にいる真夏の姿だった。
会いたいと願うことは弱さだ。それはとうに理解している。どうしても忘れられない光景がある。
矢が飛んできた。
思い出したくないのに、否応なく瞼の裏に浮かぶ光景だ。
真夏が、すっと前に出たのだ。なんのためらいもなく。まるでそれが当然のことのように。
風が吹いていた。雨の気配がし、湿った土の匂いがする。
そして自分を包むように伸ばされた腕。その腕はあまりに細く、あの時の博嗣にとっては世界の全てを守る腕だった。
「やめろ!」
叫んだ声は間に合わなかった。音もなく矢が突き刺さり、緋色の狩衣が赤黒く染まっていく。
目を見開いた真夏が博嗣の顔を見て、微かに笑ったように見えた。
「……生きて」
震える唇がそう言った気がした。
博嗣の手に、その時真夏を抱きしめた時の重さがまだ残っている。
倒れかけた真夏の体を抱きしめた時、肩に伝った血の温度。
それを押さえるようにした手が、あまりにも頼りなく震えていた。
「あれは、終わってないんだ」
ぽつりと漏らした言葉に、自分の声ながら少し驚いた。そうだ。あの死は時間の中に沈んでいない。今も博嗣の中で生々しく息づいている。
真夏は博嗣を庇って死んだ。
「俺のせいだ」
他でもない自分を守るために自分の命を差し出した。なぜ、そうまでして。なぜ、あんな優しい顔で笑えたのか。答えはあの時も今もわからないままだ。
けれど、わからないままでも、博嗣は知っている。あれが全てだった。あの瞬間に、博嗣の中で真夏が永遠になった。
(まだ、そこから動けずにいる……)
だからこそ会えない。生まれ変わってもなお、夢通ってしまっている。けれど、現実で会ってしまったら、もしまたあの時のように自分を庇って命を落とすようなことになったら。今度こそ自分は戻ってこられなくなる。
「俺の中では、あれは昔のことじゃない。今もずっとここにある」
博嗣はゆっくりと胸に手を当てた。鼓動がある。生きている。それは、真夏が自分の代わりに死んだからだ。
「俺の命は、真夏の死の上にある」
だからこそ簡単に踏み込めない。再び交わるということは、再び選択を迫られるということだ。
自分と生きることを選ぶなら、彼はまた何かを捨てることになるかもしれない。それが怖い。
博嗣はぎゅっと唇を噛んだ。
(けど、それでも……)
夢で目があった時、少しだけ緩んだ真夏の頬。
真夏の中にも、まだあの時の痛みが残っているのなら、あの痛みに寄り添える日が来るのなら。
(俺は今度こそ……)
思いが言葉になる前に、再度、ドアをノックする音が聞こえた。1度下がった良子が再びやってきた。
「博嗣さま。朝食の準備ができました。お召し上がりになりますか?」
「ああ、行くよ」
博嗣は目を閉じ、ひとつ息を整えてから部屋を出た。手に、まだ真夏の重みが残っている気がした。
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