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囁く声3
ダイニングには温かい香りが漂っていた。出し汁の香り。白米の湯気。焼き魚の香ばしい匂いが朝の冷たい空気を和らげている。
博嗣はゆっくりと席についた。
良子が手際よく朝食を並べていく。どれも特に博嗣の好物というわけではないが、季節に合い、体に優しいものばかりだ。
「今日のお味噌汁は、わかめにしました」
「ありがとう」
礼を言いながら箸を取る。味噌汁を一口すすると、ほんのりと磯の香りがした。胃の奥が温まっていく。けれど、味はほとんど残らなかった。今もまだ体の奥が夢に浸っている。
真夏の声。目元の笑み。それらが湯気の向こうにちらついては消える。
「……夢の中の真夏は笑っていたな」
ぽつりと呟いた言葉に、良子は少しだけ手を止めた。だが返事はしない。ただ黙って博嗣の空いた湯飲みに新しいお茶を注ぐ。
「俺はあいつのことを……」
好きだった。いや、今も――。
過去に置いていけたら、どれだけ楽だったか。死という別れが終わりとして機能するなら、きっとこんなに何度も夢に見ることはなかっただろう。
でも違う。あれは終わっていない。千年たっても。矢が射抜いたのは真夏の命だけではなかった。博嗣の時間もまた、そこで止まってしまったのだ。
「人は死んだらそこで終わりだと思っていた。でも違った」
博嗣は焼き魚を箸で割りながら、じっと骨の白さを見続けていた。
「俺は今もあの時を生きてる。真夏を背負ったまま、生き続けている」
あの日、自分を庇って死んだ真夏の重さ。言葉では語り尽くせない罪悪感と感謝が絡み合い、今も胸の奥に根を張っている。
「博嗣さま」
良子が静かに声をかけた。
「それは背負ってもいいものだと思います」
「……いいもの?」
「はい。背負って生きるというのは苦しいことですが、忘れないために必要なことです」
「忘れたくないとは思っている。でも……」
思い出す度にどうしようもなく痛む。夢の中で笑っていた彼を見れば見るほど、自分が殺したような気がしてしまう。
「博嗣さまが夢でその方に会うのは想いが生きているからです。終わる日が来るかどうかはわかりませんが……」
博嗣はゆっくりと目を伏せた。
良子は多くを語らない。だが、時々その言葉が妙に胸に刺さる。
「終わらせたいと思っているのかどうかもわからない。真夏にもう一度会えたことが苦しいのに、嬉しくて……。だからつい、夢通ってしまう。現実で会うべきじゃないのかもしれない。だけと、声が聞きたくて、だから夢通ってしまう。でも、もう一度、ちゃんと生きてる彼に会って謝りたい気もする」
博嗣は箸を置いて、湯飲みで手を温める。
その手が、かつて真夏の体を抱きとめた時と同じように震えていた。
「夢じゃなくて、現で。お前を守ると言いたい。言わせて欲しい。でも……」
その言葉が朝の光に静かに溶けていった。茶の香りが柔らかく漂う中、博嗣はもう一度茶を飲んだ。
博嗣の心はまだ夢の続きを歩いていた。
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