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囁く声5

 博嗣はあと少ししか入っていないコーヒーカップを持ち上げ、口元に触れる。冷めた苦みが胃の奥に染みこむようだった。  窓の外には遠く連なる山の稜線が見えていた。霞がかかり、輪郭はぼやけている。まるで今の自分の心そのものだと博嗣は思った。  真夏がこちらへ来る――。  水晶に映った未来は確定されたもの。変えようのない、もうひとつの”記憶”だ。 (本当にそうなるのか?)  現実味がない。けれど、高光の水晶が嘘をついたことなど一度もない。ならば、それは現実になる。しかも、そう遠くないうちに。  真夏が現実で会いに来るということは、記憶を取り戻すということだ。  博嗣が命と引き換えに背負ったあの出来事を真夏も思い出すということだ。  (そんなこと……望んでいいのか?)  真夏が前世で自分を庇い、矢に射たれた光景は夢の中ではない。博嗣にとっては、毎日のように心に蘇る”現在”だ。  あの時の血の色。重さ。温度。全てが体に刻まれて離れない。 (また同じ事が起きたら……)  鬼狩りは今現在は存在しない。それでも、この世界が”違うもの”に対して、どこまでも冷酷になれるということを博嗣はよく知っていた。何も起こらない保証なんてどこにもない。 「――なのに」  そう思いながらも、胸の奥にある小さな感情が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。 (会いたい)  ずっと心に蓋をしていた想いだ。  夢でしか会えないことに慣れようとしていた。望むことは罪だと思っていた。  けれど本当にそうだろうか?  真夏はもう子供ではない。自分で選ぶことができる。  夢の中で見たあの瞳は、あの頃と同じ真っ直ぐな光を宿していたが、どこか凜としていて、もう誰かに守られるだけの存在ではなかった。 (俺が怯えている間に真夏は、成長している)  ”もう一度守る”という思考すら、もしかすると傲慢なのではないか。そう思うと自分の中で何かが静かに崩れた。  高光の水晶に映っていた未来の自分は、どんな顔で真夏を迎えていたのか――。  優しく微笑んでいた気がする。 「俺は本当は、ずっと待っていたのかもしれないな」  それは償いのためではなく。ただ、もう一度隣にいて欲しかった。それだけの真っ直ぐな願い。  ふいに、夢の中の景色が脳裏に浮かんだ。月の光がぼんやりと竹林を照らし、その中に真夏が立っていた。  風が吹き、笛の音が揺れる。音の主は自分だった。 (あの夢は、俺の記憶でもあるけれど、願望でもある)  博嗣は自分の胸の内にずっとしまっていた感情の箱を、ゆっくりと開いていることに気づいた。  それは罪悪感の奥にずっと眠っていた”希望”だった。  たった1度でも、もう1度だけでも、現で会いたい。触れたい。声を聞きたい。その手を握りたい。  それを口にすることがずっと怖かった。でも、もうその感情を認めてもいいのではないか。  真夏のあの目を見てしまった以上、それを否定する方がよっぽど残酷だ。 (あいつが来るなら、俺は……)  言葉にはしなかった。できなかった。けれど、心のどこかで確かに、博嗣の心の中に”覚悟”が芽吹き始めていた。

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