64 / 99

囁く声6

 翌日。  博嗣は、ふと手元に置いていた”あの竹笛”を手に取っていた。  色は少しくすみ、笛の端には細かい傷があった。それらは時間の痕跡ではなく、真夏の小さな指が刻んだ想いの跡だった。   「元服前のあいつが……」  何も知らずに、ただ純粋な心で作ってくれた笛だった。それが千年の時を超えて今もこの手の中にある。 「忘れるわけがない」  小さく囁くように呟くと、ふと夢の中のあの音が蘇った。竹林の風と、月の光と、あの細く澄んだ音色。 (また聞きたい)   胸がぎゅっと締め付けられる。  会いたい。声を聞きたい。あの笛を、もう一度真夏の手から聞きたい。あの頃の真夏は笛が苦手だったけれど。  だけど、そこに浮かぶのはあの最期の瞬間だ。  ――矢が飛び、血が吹き出す。自分の前で、何のためらいもなく命を差し出したあの姿。 (どうしてあの時、止められなかった?)  何度夢で繰り返しても、結末は変わらない。  手を伸ばしても、血を止めても、時間は巻き戻らない。  あれは現実だった。そして博嗣が背負うべき過去だった。  手にした竹笛をぎゅっと握りしめる。あの記憶は癒えない。けれど、それでも……。 「もう一度同じ結末を繰り返すとは限らない」  呟いた瞬間、自分でも驚いた。  過去を手放せなかったはずのこの口から、そんな言葉が出たことに。 (違う未来を作るために、今度は俺が……)  前世で救われた命。その恩をただ沈黙と引き換えに返すのではなく。今度こそ、同じ痛みを繰り返さないために、行動することが償いになるのではないか。 (真夏がこちらへ来るという未来。それを変えられないなら……)  せめて、そこにある苦しみは減らしてやりたい。  心の中に渦巻いていたものは、罪悪感だけではなかったのだと気づく。  ”守る”という言葉の中には、”ただ傍にいたい”という願いも潜んでいた。  自分はずっと誰にも言えずにいた。その感情を持つこと自体が許されないと思っていたから。  それなのに、真夏は何度も夢に現れて言葉をくれた。会いたいと言った。記憶を思い出したら会ってくれるか、と問うた。その言葉を博嗣は否定できなかった。 (それでも拒めなかったのは、俺が願っていたからだ……)  真夏の中に残っていた記憶の欠片が、自分を忘れずにいてくれたことがなによりも嬉しかった。ただ、それを素直に受け止める勇気が博嗣になかっただけだ。  博嗣は静かに立ち上がった。窓の外を見ると、また山の霞が少しずつ晴れていた。  思い出す度に痛む記憶も、今は少しだけ温かく感じられた。そして思った。これから向かう未来を、あの痛みの延長ではなく、別の光として選べるのなら―― 「会って確かめたい」  夢ではなく現で。  彼が自分を選んでくれるのか。自分がそれに応えることができるのか。もう一度その目で、声で確かめたい。  それは間違いなく、恋と呼んでいい想いだったのかもしれない。

ともだちにシェアしよう!