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囁く声7
夜が訪れていた。
博嗣は再びコーヒーを淹れ、ひとりリビングのソファに腰を下ろしていた。
外の景色はすっかり闇に沈み、山の稜線は窓の向こうに黒い影のように浮かんでいる。
静寂が部屋を満たしていた。高光が見せた水晶の映像が、まだ脳裏から離れない。
真夏がこちらの世界へ来る。記憶を取り戻し、自分の意思で。
(私はそれを……受け入れる)
そう想いながらも、まだどこかで恐れていた。会うことへの希望と不安が心の中でせめぎ合っている。
目を閉じれば、夢の中で真夏が見せた瞳が浮かぶ。過去と変わらぬ真っ直ぐさ。でも、もう子供のように守られるだけの存在ではなかった。
(それでも私は、あいつを守れるのか?)
今度こそ、命を背負わせないように。同じ悲劇を繰り返さないように。
博嗣は、カップをソーサーに置き、両手で顔を覆った。
心が熱を帯びていた。夢に見る度に痛んでいたはずの記憶が、今はどこか灯りのように感じる。
真夏の存在が、自分の中で”罪”ではなく、”望み”に変わりつつある。それが怖かった。けれど、同時に愛おしかった。
窓の外を風が通った。竹の葉が揺れるような音が聞こえた気がして、博嗣は立ち上がった。
夜の山。竹林。月光。そして笛の音。
(あの音を、今度は夢じゃなく……)
触れたい。確かめたい。生きている真夏をこの手で迎えたい。
「もう、逃げるのはやめよう」
小さく、けれど確かにそう呟いた。
逃げることで守れるものがあると思っていた。自分さえ沈黙していれば、再び誰かを傷つけることはないと信じていた。けれど、それは真夏の”意思”を信じていないのと同じだった。
(あいつは私に会いたいと言った)
記憶を全て思い出したら――そう言った。ならばそこに博嗣がノーという余地はもうない。
心の中の迷いが、少しずつ霧散していく。代わりに、胸にじんわりと温かな火が灯る。
恐れがなくなったわけではない。あの痛みを忘れたわけでもない。でも、それでも前へ進むと決めた。
夢に縋るのではなく、現実の中でこの手を差し伸べると。
「来るなら受け止める。どんな未来でも。今度は――一緒に背負う」
その時、窓の外にふっと光が差した。雲の合間から月が姿を現したのだ。滲むような淡い光が、静かに山を照らす。
博嗣はカーテンを開けた。そして月を見上げ、深く息を吐いた。
「俺が恐れていたのは過去じゃない。未来だったのかもしれないな」
それは口に出すことで、ようやく気づいた真実だった。ずっと手に入らないと思っていたから、願ってはいけないと蓋をしていた。
だけど本当は、誰よりも強く、彼との未来を望んでいた。
(真夏。お前の記憶が全て戻る。その時が来たら……)
夢ではなく、現で。
今度は自分の声で、言葉で伝えよう。もう離さない、と。お前とともにいると。
静かな夜に、ひとつの決意が芽吹いた。
それは、かつて命を差し出して守ってくれた人への、今を生きる者からの返答だった。
”現で会おう”
全ての記憶と痛みを抱えて。それでも、共に歩くために。
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