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目覚めの香1

 どこかから笛の音が聞こえていた。  山の静けさの中を、澄んだ笛の音が風に乗って流れてくる。清らかで、けれどどこか哀しみを含んだ音色だった。  その、どこか懐かしさを覚えながら、音の方へと歩いて行った。  そして、夢の中の自分は音の方へと歩いて行った。  周りは鬱蒼とした木々に囲まれ、湿った土の匂いが鼻先をかすめる。蝉の声が遠くから響いていた。  夢だ、と気づいたのは、その全てが現実よりも色濃く、輪郭が曖昧だったからだ。  音に導かれるように進むと、岩の上に1人の男性が座っていた。  銀色の長い髪が風に揺れている。白い着物の上に緋色の単衣を羽織り、笛を唇に添えていた。横顔は端整で静かで、どこかこの世の者とは思えぬ雰囲気を纏っていた。けれど、恐ろしさはなかった。  年齢は20代前半か中頃か。真夏が夢で何度も見てきた”誰か”その人だとすぐにわかった。  けれど、名前は知らない。姿を見れば心が温かくなるのに、思い出そうとしても記憶は霧に包まれたままだ。  そっと呟いた。 「人……それとも……」  その小さな声が届いたのか、男は笛を下ろし、ゆっくりとこちらを向いた。 「人の子の声を聞くのは久しぶりだな」  思いがけず掛けられた言葉に、真夏は胸の奥が熱くなるのを感じた。 「この笛……誰かを想っているような気がして」 「母の笛だ。人だった母がよく吹いていた。風が吹くたび、何かを想って」  母と聞いた時、その表情がわずかに陰った気がした。きっともういないのだろう。言葉の端々に滲む哀しさに真夏の胸も痛んだ。 「母は”人と鬼が交わることは叶わぬ夢”だと、そう言って笑っていた。悲しそうに」  鬼――。夢の中で聞いたその言葉は、どこかで聞いた気がするのに現実の感覚とは上手く結びつかない。けれど、不思議と、目の前の人が鬼だと言っても恐ろしくはなかった。 「あなたのお母様は、きっと優しい方だったのでしょうね」 「ああ、優しくて、でも強かった。だから……死んでしまった。だけど、その優しさを私は笛にして持っている。お前のような子に出会うために」 「私のような?」 「お前は優しい子であろう? 花を摘むその手が誰かを傷つけるようには見えないからな。お前は優しい子だ。どうか、そのままでいてくれ」  そう言って微笑んだ。その微笑みは寂しく、でも温かくて、真夏はただ見つめるしかできなかった。胸の奥がふいに温かくなる。涙が出そうなのに理由がわからない。 「名をなんという」 「霞若と申します」  霞若? ああ、この自分はまだ元服をする前だったんだなと気づく。 「霞若……良い名だ」 「あなたは……」  そう問いかけた瞬間、風が木々を揺らし、男の人の髪がふわりと広がった。そして何かを口にしたのだろう。けれど、その名は風にさらわれ、真夏の耳には届かなかった。  ただ、香の良い香りがした。これは沈香か? 母が香が好きでよく焚いているが、それとは少し違うが、良く似ている。  この香の香りはどこか懐かしくて、胸を締め付ける。  そう思った瞬間、景色が滲み、夢が終わる予感がした。  真夏は目を覚ました。けれど、心の奥にはまだあの音色が残っていた。優しくて、悲しくて、どこか懐かしい、あの笛の音。  これは自分と彼との出会いだ。出会った頃、自分はまだ元服前の子供だったのかと思う。  しかし、せっかく名前を聞いたのに、その名は聞こえなかった。何という名前なのだろう。名前だけが、どうしても思い出せない。

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