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目覚めの香3

 あの香りの正体が気になって、真夏はその日から香りにまつわる記憶を辿るようになった。  まずは近所の香水屋さんに行ったけれど、そこに並んでいるのはどれも今風の人工的なものばかりだった。  甘いバニラや柑橘、花のブレンド。どれも違う。あの夢の香りはもっと静かで落ち着いていてなぜか胸の奥に深く響いてくるものだった。  次に足を運んだのは、都内にある香木専門の和の香りを扱う店だった。  木の箱に丁寧に保管された香木を試香させて貰い、沈香の香りを嗅いだ瞬間、真夏は小さく息を呑んだ。    ――これだ!  夢の中で最も印象的だった香り。穏やかで、木の温もりのような甘さのある香り。その奥に、どこかスパイシーな香りと、冷たく澄んだ香りが重なっていた気がした。 「これに何か混ぜたりするんですか?」  そう店の人に尋ねると、|丁子《ちょうじ》や|龍脳《りゅうのう》という香材の名が返ってきた。  丁子はクローブとも呼ばれる香辛料で、香りに刺激と奥行きを加える役割があるという。龍脳は、すっきりとした清涼感を加える香材で、古来、貴族の|薫物《たきもの》や仏事にも使われていたと教えられた。 「平安時代の貴公子の薫物などでは、よくこの3つを含めて数種類を調合して香りを作ったりしていたんですよ」  沈香、丁子、龍脳。この3つが揃った瞬間、真夏の中で夢の記憶が鮮やかに再生された。あの山の中で出会った銀色の髪の男。その人の袖から、確かにこの香りがふわりと漂っていた。  その夜、真夏は図書館へ向かった。地方史や風俗史を扱う棚で”香道”や”平安時代の香り”に関する資料を探し、貴族たちが香を調合して自らの趣味や教養を競い合っていたこと、そして”薫物合わせ”といった遊びに香りが用いられていたことを知った。香りはただの飾りではなく、記憶や心を伝える”言葉”でもあったのだ。  さらに夢の香りについて調べているうちに、ある論文に辿り着いた。「香と異界の境界」という民俗学的な論考だった。  そこには古来、香りが”この世”と”あの世”の境目を示すものであると考えられていたという記述があった。特に沈香や龍脳は寺院での読経や仏前に焚かれ、霊的な世界との繋がりを生む香りとされていたという。  そして、ある伝承が目を引いた。 「鬼は香を通して人を誘う。香に導かれた者は、夢の中で彼らと会い、やがて現でもその姿を探し始める」  ――香りが、鬼と人を結ぶ鍵?  まさかと思いながらも、真夏の中に確かに芽生えたものがあった。あの夢に出てくる人の正体。その存在がただの幻想ではないかもしれないという直感。そして、自分が無意識のうちにその人を探しているのだという確信。  香りは記憶を呼び起こす。あるいは、記憶の中にあるものを超えて、前世や魂の繋がりにすら触れるのかもしれない。  沈香、丁子、龍脳。静かな香りの重なりの奥に、真夏は誰かの名前のような、まだ思い出せない音を聞いた気がした。

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