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目覚めの香4

 昼下がりのカフェ。窓際の席に腰を下ろし、真夏は手元のノートに何かを書き付けていた。  図書館で集めた香道や平安の香に関する知識、夢に出てきた香りとの照合、そして”あの人”の姿。  銀色の髪。深い瞳。そして遠くを見つめるような表情。何を思っていたのだろう。そんなことばかり考えている。 「……また何か調べてたのか?」  向かいに座る兼親が声をかけた。手にしたアイスコーヒーはほとんど減っていない。 「うん、ちょっと……。また夢に出てきたから」 「夢って、礼のあの人?」  真夏が頷く。兼親がどう思っているのか言葉には出さないけれど、察していた。自分がここ最近ずっと"夢の中の誰か"に心を向けていること。現実に目を向けていないこと。そういうところ、兼親は鋭いから。  それでも、夢の中のあの人に惹かれていく感覚は止めようがなかった。初めはただの夢だと思っていた。けれど、夢の中のあの人は日々、輪郭をくっきりとさせていく。  表情。声。香り。手の感触。次第に”知らない誰か”ではなく、”懐かしい誰か”になっていった。 「なあ、兼親」  ふと思い立って口を開いた。アイスコーヒーのストローをくるくると指で回しながら、曖昧な言葉を選ぶ。 「俺、誰かを忘れてる気がするんだ」  言いながら、自分でもよくわからない感情に喉の奥が詰まる。  夢の中の人が、ただの夢じゃなく、もっと深いところで繋がっていたんじゃないか。忘れてしまったことが、何か大事なものを壊してしまっていたような気がする。けれど、思い出すことが怖くもあった。  兼親はすぐには答えなかった。ゆっくりとカップを持ち上げて一口飲み、それから少しだけ顔をあげた。 「今は、それを思い出したいのか?」  真夏は返事に詰まる。思い出したい。けど、思い出すことで変わってしまう何かもあるような気がした。例えば、こうして向かい合っている兼親との関係とか、日常の安定とか。言葉にできない何かが、確かに胸の中で揺れていた。 「……わかんない。でも、思い出せたら何か変わるような気がするんだ」  そう言って、無理に笑って見せた。自分でも曖昧な答えだと思う。でも、それが今の正直な気持ちだった。  兼親はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに真夏の顔を見ていた。まるでそこに、”自分じゃない何か”を見ているような眼差しだった。その視線に気づいて、真夏は胸の奥がちくりと痛んだ。  本当はちゃんと話さなきゃいけないのかもしれない。自分がどれだけ夢に囚われているか。どれだけ”あの人”のことばかり考えているか。  けれど今はまだ言えなかった。言葉にしてしまったら、もう戻れなくなる気がして。 「こんな話しばかりでごめん」 「いいよ、別に」  兼親の声は淡々としていた。でもその言い方が、逆に寂しく感じられた。そう思うのは自分の勝手だとわかっている。けれど、その静けさに何かが潜んでいるような気がした。  店を出たあと、並んで歩きながらも言葉はなかった。陽射しは強く、でも風は心地よかった。でも、どこかに影が差していた。  真夏は歩きながら、自分がどこに向かっているのかを思った。そして隣にいる親友の存在を感じながらも、心の一部が遠く、”夢の人”のもとへ惹かれていくのを止められなかった。

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