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目覚めの香5

 それからというもの、真夏は香りに敏感になった。  駅前のお香屋の前を通った時も、不意に沈香の香りが鼻をかすめた瞬間、歩みを止めてしまう。  胸の奥で何かがざわりと揺れる。それは懐かしさとも恋しさともつかない、けれど確かに「思い出さなくてはならないもの」への強い渇望だった。  それでも記憶の扉は固く閉ざされたままだ。思い出したい、けれど思い出せない。香りが導いてくれるはずなのに、霧のようなものが覆い被さってそれ以上先に進めない。もどかしさと焦燥で胸がぎゅっと締め付けられた。  夜――眠りに落ちた真夏は、またあの夢を見た。  どこかの山。薄い霧が立ち込め、湿った風が頬をなでる。空気に混じって漂ってくる香りがある。沈香と丁子、そしてほんのわずかな龍脳。深くて柔らかな、それでいて胸を突く香り。  その香りが鼻腔をくすぐった瞬間、鼻の奥がつんと痛くなった。涙が出てきた。  夢の中なのに、涙を落ちていく感覚がある。温かく、頬を伝って首筋に滑る。それがどうしてなのか自分でもわからない。ただ、その香りが流れてくるだけで呼吸が苦しくなるほどに胸が締め付けられ、涙が止まらなかった。  その場に誰かがいる気配があった。銀の髪が風にそよぐ。振り返るその人の顔ははっきりと見えないのに、目が離せない。  懐かしい。愛しい。どうしてこんなにも――。  目が覚めた時、真夏の枕は濡れていた。部屋にはもちろん香の匂いなどしない。けれど、まだ鼻の奥に微かに沈香の気配が残っているひょうな気がして、真夏はベッドに腰をかけたまましばらく動けなかった。  なぜ自分はあの香りに反応するのだろう。何故涙がでるのだろう。その理由がどうしてもわからない。わからないのに心が勝手に反応してしまう。涙腺が、胸があの香りに引き寄せられていく。  香りの正体はわかっている。沈香、丁子、龍脳――図書館で調べた、平安時代の貴族が好んで使った組香のひとつ。  けれど、自分がそれをどこで嗅いだのか、誰とともにいたのか、どんな場面で涙を流したのか、それだけが記憶の奥で閉ざされたままだった。 「なんで俺、泣いたんだろう」  ぽつりと独りごちた声が早朝の部屋に虚しく響く。夢の中では確かに誰かがいた。その人のそばにいると懐かしくて、苦しくて、でも安心できた。  涙の理由が喜びだったのか、悲しみだったのかもわからない。ただ、確かに”あの香り”には自分の心を揺さぶる何かがあった。  まだ全ては思い出せていない。けれど―― 「きっと、もうすぐ……」  そんな予感だけが胸の奥でじっと静かに灯っていた。  真夏は顔を洗い、濡れた手をタオルで拭きながら、窓の外を見た。青く澄んだ空の下、どこかで風が吹いている気がした。その風の中に、あの香りがふっと紛れていそうで思わず目を閉じる。  あの人は一体誰なのか。何故自分の心は、そこまで強く惹かれるのか。まだ答えは出ない。けれど、その問いの先にあるものに手をのばさずにはいられない気がしていた。  もう一度夢を見たい。そして次こそは……。

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