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目覚めの香7
その日、真夏は雑踏の中を歩いていた。駅前のスクランブル交差点はいつものように人で溢れ、喧噪と光に包まれていたが、自分の心の中だけはどこか別の場所にいた。
そして香専門の店の前を通りかかった時、その店から香ってきた香りが夢の中で感じた匂いと酷似していた。沈香に丁子、龍脳――甘さと渋さが混じったあの深い香り。その香りを吸い込んだ瞬間、胸の奥に熱い痛みが走った。
「なんでだ……」
独り言のように呟いた。香りは記憶を呼び起こすと聞いたことがある。ならば、自分が思い出しつつあるものとは、あの夢の中の人に関係しているはずだ。
その時だった。すれ違った男性の首筋から、ふと風に乗って香が流れてきた。あの香りと全く同じ。沈香に丁子、龍脳が混ざり合う、あの懐かしい香り。
瞬間、視界が傾いだ。心臓が大きく跳ね、世界の輪郭が歪んでいく。
真夏は思わず足を止めた。でないと倒れてしまいそうだった。人の流れの中、ただ1人立ちすくむ。鼓動が早く、目の奥が熱くなる。
香りが濃くなる。
いや、違う。ここは街の雑踏の中じゃない。
風が湿っている。草の匂い、土の匂い、そして血の匂いが混ざっている。
誰かの呻き声。木々の間を縫うようにして、鮮やかな赤が視界をかすめた。
(どこだ、ここ……)
目の前に広がるのは山の中だった。木々の間から光が差し込む。誰かが倒れている。緋色の布地に赤が滲んでいる。胸に深く突き立てられた矢。そして、その体を抱きかかえるようにして崩れ落ちている、銀色の髪の人。
「博……」
知らないはずの名を呼び掛けようとした瞬間、背筋に戦慄が走った。真夏は口元を押さえた。喉が詰まり、言葉が出ない。目の前の光景が焼き付いて離れない。
どこかで何度も見たような感覚。けれど思い出せない。でも、知っている。確かに見た。いや、あれは……。
「……っ、は……っ」
再び視界がぐらつく。現実の音が耳に戻ってくる。車のクラクション、人の声、足音。
気がつけば真夏は、ビルの影に身を寄せていた。汗ばんだ手で額を押さえ、荒い呼吸を繰り返す。頭の中ではまだ、あの香の残り香が渦巻いている。
「……なんで」
香りを感じただけで、こんなにも胸が締め付けられる理由がわからない。なぜ、あの血の匂いと香の匂いが重なった記憶を持っているのか。
誰かを――いや、あの銀色の髪の人を失った記憶がある。いや、自分が失われたのかもしれない。あの場面で倒れていたのは、誰だ?
立ち上がろうとする足が、すぐには言うことをきかなかった。心臓がまだ速く打ち続けている。
自分の中の何かが、確実に動き出している。現実の時間と別の流れの中で、記憶の扉が何かの拍子に軋むようにして開いている。
香りは夢の中だけのものではない。確かに自分の記憶の奥にあった。そしてその香りは、悲しみと結びついている。けれど、童子に温もりもある。あの香の中で、抱かれていた気がする。血の匂いと共に、誰かの腕の中にいた。
真夏は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝った。理由はわからない。けれど、確かにこれは自分が生きた記憶なのだと思った。夢じゃない。現実の向こうにある、もうひとつの”自分の人生”が香りによって目を覚まそうとしている。
「……思い出すよ、必ず」
風の中に残る微かな香りを追いながら、真夏は歩き出した。
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