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目覚めの香8
夜風がガラス越しに吹き込むカフェのテラス席。
真夏はぬるくなったコーヒーを両手で包みながら、遠くの街明かりをぼんやりと眺めていた。
通りのざわめきは落ち着き、店内には静かなピアノのBGMが流れている。
向かいに座る兼親が、グラスの氷を揺らしながら、ふと真夏を見た。
「……なぁ兼親」
「うん?」
「俺、もっと思い出したいんだ。全部……会わなきゃいけない気がするんだ、あの人に」
その瞬間、ふわりと風が吹いた。甘く、乾いた香りが漂う。沈香だ。夢で何度も嗅いだあの香りが、一瞬だけ現実に染みこんできた。
真夏は思わず顔をあげ、香りのした方角を見つめた。そこには何もない。けれど、胸の奥だけが静かにざわめいていた。
「どのくらいまで思い出した?」
「最近は、あの人の香りと名前が博なんとかってこと」
「香りか。どんな香りするんだ?」
「沈香と丁子と龍脳が混ざった香り」
「沈香はわかるけど、丁子とか龍脳とか初めて聞いた。でも沈香ってことは平安時代か」
「うん。だって、俺が知っているのは平安時代しかないから」
「確かにそうだな」
街中でフラッシュバックでワンシーンを見てから気にかかっていることがある。
あの、矢で射られた人は誰なんだろう。銀髪の人が崩れ落ちるほどショックを受けていた。あれからそのシーンが脳裏に染みついて離れない。
あんな悲しい場面をあの人は1人で抱えているのかと思うと真夏は胸が締め付けられた。
「で、名前ははまだ思い出せないのか」
「うん。フラッシュバックの時に、名前を呼びかけようとした時に、博って言いかけたから、博のつく名前なんだろうけど」
「博なんとかじゃ、わからないよな」
「そう。それにさ、あの人が矢で射たれた人を抱きかかえるようにしてたけど、その射たれた人が誰なのかもわからない」
「まぁ、この流れでいけばお前なんだろうけど」
「俺?」
「そう。だって、でなかったらそんなフラッシュバックで見たりしないだろう」
兼親の言葉に、真夏もそうか、と頷く。でも、あのシーンはあの時以来みていない。だから、自分だという確証がないのだ。
「俺だとしたら、なんで射られたんだろう」
真夏はぽそりと呟いた。あの矢は元々自分に向かって放たれたのか。それとも誰かに射られたものを庇ったのか、それともただ巻き込まれたのか。それすらわからない。
「そこまで思い出したら、もう一歩ってとこなんじゃないか?」
兼親がそう言って、アイスコーヒーに口をつけた。その声音は相変わらず穏やかだったか、どこか少しだけ遠く感じた。
「なんかさ。あの人、ずっと何かを我慢してる感じがするんだ」
「夢の中で?」
「うん。優しいけど、いつも一歩引いてて。俺が近づくのを迷ってるみたいな」
「それでも会いたいんだろ?」
「うん。絶対に」
その時だった。風がふっと吹き、沈香と丁子と龍脳の、どこか懐かしい香りが鼻先をかすめた。真夏はすっと顔を上げ、その香りの流れてきた方角へ静かに視線を向けた。
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