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現代の伝説3

 博物館を出て、心臓をどきどきとさせながら宿へと戻った。あまりにもどきどきしていて、夕食の味もよくわからなかった。  風呂に入り、寝る準備をするけれど、明日が楽しみなようなそうでないような感覚ですぐには寝つけなかった。最も、そんなに朝早くに訪ねるわけではないので、朝食をギリギリの時間に食べても間に合うから、少しぐらいの寝坊は大丈夫だけれど。  そんなことを考えていると、東京から来てすぐに博物館へ行ったことで疲れていたようで、しばらくすると寝てしまっていたようだ。そして、夢の中にいた。  深い霧が立ちこめ、足元の落ち葉がしっとりと濡れている。どこからか風が吹き抜け、その風に乗って笛の音が聞こえてきた。  ――あ。  木々の間から見える大きな岩に銀色の髪の人が座って笛を吹いていた。目を伏せて吹いていたけれど真夏の気配に気づいたのか、笛を吹くのを止め、真夏を見やった。 「……」 「少しずつ思い出してきています。まだ貴方の名前も自分の名前も思い出せていないけれど、それ以外のことは少しずつ思い出している。だから、きっと全て思い出すまでもう少しです。そうしたら会ってくれるんですよね?」 「そんなにして私に会いたいか」 「はい」 「夢通うだけではいけないのか?」 「はい」 「でも、全て思い出したら会いたくなくなるかもしれないな」 「それでも私は会いたいんです。全部思い出して、それでも……あなたに、もう一度」  真夏の言葉に銀色の髪の人は静かに目を伏せた。霧の向こうで木々がざわめく。その気配の中に、どこか切なさが混じる。 「お前は変わらないな。……いや、変わったのか。前よりずっと……」  低く押し殺したような声だった。彼は一拍置いて、真夏を見つめ返した。赤い瞳が、まっすぐ心の奥を見透かしてくるようで、真夏は思わず息をのんだ。 「思い出したら全てが変わる。後悔するかもしれない。それでも?」 「はい」 「……ならば、もう少し夢通おう。その先で、お前がそれでも望むなら」  彼の手が霧の中でふわりと伸びた。触れられそうで触れられない距離。あと少しで届く気がして、真夏もそっと手を伸ばす。  その瞬間、霧がさざ波のように揺れて、世界がぼやけた。  ――目が覚めた・  天井の木目が揺れているように見えたのは、夢から現実に戻った直後だったせいかもしれない。真夏はそのまま掛け布団の中でじっとしていた。  指先がかすかに熱を帯びている気がする。夢の中で、あの人の手が触れかけたせいだ。もちろん、現実には触れてなどいない。けれど、その温もりのような感覚が確かに残っていた。 「名前、やっぱり思い出せなかった」  ぽつりとこぼれた言葉が、1人の部屋に落ちた。  けれど、確実に思い出しかけている。彼の声、瞳、あの山の空気。そして何より、何度も夢で交わしてきた言葉の数々。  夢の中の彼が、何度も問いかけてきた。「それでも会いたいか」と。「思い出したら変わってしまうかもしれない」と。 (それでも、会いたいと思ってる)  名前も、顔以外の記憶は、まだはっきりとは戻っていない。でも、あの人にまた会いたいという気持ちだけはどんどん強くなっている。  スマートフォンの時計を見ると、朝食の時間までもうあまり余裕はなかった。これど体を起こす気になれず、しばらく夢の余韻に浸っていた。  次に夢を見た時には、今より少しだけでも何かを思い出せているだろうか。あるいは、あの人の名前をやっと呼べるだろうか。  そんなことを思いながら、真夏はやっと布団から起き、窓の外をぼんやりと見つめた。薄く雲が流れる空が、少しだけ夢で見た霧の色に似ていた。 

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