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現代の伝説4
山を降りた集落の小さな茶屋で地元の案内人に紹介されて老女と対面したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
茶屋の奥にある畳敷きの座敷で、真夏は湯飲みを両手で包みながら老女の前に座っていた。
皺だらけの手で急須を持ち上げながら、老女は穏やかに言った。
「鬼はおったよ。今もおらんとは言い切れん」
その言葉に真夏は息をのんだ。民話や伝説のような感じではなかった。まるで本当に、昨日までそこにいたかのように語る声色だった。
「鬼、いたんですか?」
「いたとも。この山には昔からよう出たんじゃ。悪さをする鬼ばかりやない。人の世に関わりすぎて、姿を見せんようになった鬼もおったそうな」
老女の語り口は静かで、語るというより記憶をなぞるかのようだった。真夏は心のどこかがざわつくのを感じながら、夢の中のことをぽつりぽつりと話し始めた。
山に立ち込める霧、湿った落ち葉の感触、そして――笛の音。霧の中に佇む男の姿。銀の髪に赤い瞳。名前はまだ思い出せないのに、その姿だけははっきりと覚えている。
真夏が口を閉じると、老女はしばらく黙って湯飲みに目を落としていた。だが、やがてふっと目を細めて静かに頷いた。
「おるんじゃよ、その話し。昔からな、銀の髪に、赤い目をした鬼が笛を吹いておったという話しがずっとこの辺りに伝わっとる」
真夏の背中に、ぞわりと冷たいものが走った。心臓が、つかまれたように跳ねる。
「……本当に?」
「ほんまかよ。わしが子供の頃にも年寄りが言うとった。霧の深い夜に山に入ると、どこからともなく笛の音が聞こえてくる。それは鬼の笛でな、姿を見た者は皆、口を揃えて言うんじゃ。銀の髪、赤い目、静かに笛を吹く美しい鬼だったと」
頭の中で、夢の中の彼の姿が鮮やかに蘇る。木々の間に見えた横顔。唇にあてた笛。目を伏せたまま、音だけで心を撫でてくるようなあの旋律。
(同じだ。……夢の中の彼と、老女が語る鬼は同じだ)
まるで夢が現実を追いかけていたのか。あるいは現実の記憶が夢の形を取って現れたのか、わからない。けれど、あの人はただの夢ではない。確かな”過去”の存在なのだと真夏は直感した。
「その鬼は、今もいるんでしょうか?」
真夏が尋ねると、老女は少しだけ視線を上に向けた。遠く、記憶の彼方をみるような目だった。
「さあなあ。もう、随分昔の話しだからな。けどな、人の記憶に残っとるうちは、どこかにおるのかもしれん」
老女の言葉に、真夏は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
――記憶。
そうだ。自分はまだ全てを思い出していない。彼の名前も、自分がその”鬼”とどんなふうに出会い、何を交わしたのかも。でも、確かに今も夢を通して繋がっている。そして彼は言った。「全てを思い出したら会おう」と。
(過去に、あの人と本当に出会っていたのなら、俺は……)
真夏は膝の上に置いた手をぎゅっと握った。夢に揺さぶられるだけじゃない。自分の足で歩いて、探さなければならない。記憶の続きを。約束のその先を。
茶屋の座敷に午後の光が差し込んでいた。湯飲みの中で、お茶の水面が静かに揺れている。老女はもう何も言わず、ただ黙って真夏の決意を見守っているようだった。
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