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現代の伝説5

 茶屋を辞して外に出ると、空はいつの間にか淡く暮れ始めていた。山の端に太陽が沈みかけ、木々の影が長く伸びている。真夏はゆるやかな下り坂を宿へと歩き始めたが、その足取りはおぼつかなかった。心が追いついていなかった。 (銀の髪に、赤い瞳、笛を吹く鬼……)  あの老女が語ったのは、ただの昔話ではない。実際にその姿を見たかのような口調だった。そして何よりその語る鬼は、夢の中に現れるあの人の姿そのものだった。  偶然とは思えなかった。何も知らない土地で、幾度も夢に見た人物の言い伝えを聞くなどということがあるはずがない。そんなふうに片付けられる話しではなかった。 (本当に……あの人は夢の中の幻なんかじゃなかったんだ)  肩が微かに震えていた。緊張か興奮か、あるいは恐れか。どれも混ざって自分でもよくわからなかった。ただ胸の奥で確かなものが形を持ち始めていた。  ――自分はあの人を知っている。  名を思い出せずとも、過去が完全に思い出していなくても、それだけは確信できた。夢で交わしたあの言葉も、指先が触れかかった温もりも、どこかで本当に経験したものなのだ。  宿までの道は一本道で、森の縁を沿うように続いている。誰ともすれ違わず、聞こえるのは虫の声だけだった。  風が吹いた。涼しい夜の風。少し首をすくめたその瞬間、ふいに懐かしい香りが鼻先をかすめた。沈香と丁子、龍脳の香りだった。  ふと立ち止まる。何の前触れもなく、それは流れてきた。誰かがすぐそばで香を焚いているわけではない。なのに間違いなかった。あの、夢の中で何度も感じた香りだ。  その香りは、まるで記憶の扉を叩くように、真夏の胸をじわりと締め付けた。  何度も夢で出会ったあの人の気配。風の向こうにいるかのような錯覚。思わず辺りを見渡すけれど誰もいない。ただ風が木々の枝を揺らし、薄闇が空へと広がって行くばかりだった。 「どうして……」  独り言のようにこぼれた声に、自分の震えが乗っていた。目の奥が熱くなる。気づけば涙が浮かんでいた。理由なんてなかった。香りに反応したのは心が覚えていたからだ。あの人のそばにいた時間。夢ではない。現実で過ごしたあの頃。まだ思い出せない記憶の底から、それだけがぽつりと浮かび上がってきた。  真夏は足を止め、そっと目を閉じた。すると、不思議とその香りがもう一度ふわりと漂ってきた気がした。 (待っていてくれてる……)  そんな確信にも似た思いが、心の底から湧き上がる。夢の中で交わした、「全て思い出して、それでも望むなら」というあの人の言葉が蘇る。  自分がここまで導かれてきたのは偶然ではない。東京から遠く離れたこの山間の町で、何故か引かれるように博物館を訪れ、彼の姿を目にし、笛の音に心を掴まれた。そして今日、昔語りの中にあの人の名残を見つけた。もう迷わない。記憶が完全ではなくとも、気持ちはもう決まっていた。あの人に会いに行く。夢ではなく現で。例え過去に何があったとしても。  宿の灯が遠くに見えた。淡い明かりが、少しずつ近づいてくる。真夏はその光を目指して歩き出した。足元はまだ少しふらついていたけれど、胸の中にはひとつの思いが確かな輪郭を持って灯っていた。

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