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現代の伝説6

 風が吹いた。木々がざわりと音を立てる。   「この者に弓を向けるな! これは我が客人にして鬼に非ず!」  凜とした声が山の気を震わせる。射手たちの動きが止まる。誰もが戸惑い、どうしていいのかわからないようだった。その中で、真夏だけは一歩も引かなかった。緋の狩衣が風に揺れ、白く細い指先が小刻みに震えている。それでも彼は確かにその身を鬼――博嗣の前に差し出していた。 「私は四条右大臣家の嫡子、真夏。この者は私の命により山中にて話しをしていた者。命をかけて申す。敵ではない」  言葉のひとつひとつが血のように重かった。自分の名と家柄を口にすることが、この時代でどれほどの意味を持つかを知っていた。それでもためらわずに名乗り、庇った。  風が止む。葉ずれの音も、鳥のさえずりも、全てが凍り付いたようだった。だが、沈黙を破るように、新たな一団が山道を駆け上がってきた。陰陽寮に属する者たちが率いる武士たち。彼らは真夏の言葉など意にも介さず、声を張り上げる。 「その者、鬼なり! 弓を引け!」  引き絞られる弓弦の音が、山の静けさを引き裂いた。空気が震える。 「……っ!」  博嗣が目を見開き、叫ぼうとする。その唇が真夏の名を形作ろうとする、その一瞬――矢が放たれた。鋭い風音と共に、それは一直線に真夏の胸を貫いた。緋の狩衣が破れ、赤が広がる。まるで花が開いたように静かに、しかし確かに。命の色がにじみ出る。  真夏は小さく息を吐いた。「……あ……」と。  膝が崩れ、博嗣の腕の中へと落ちて行く。 「ま、なつっ!」  絶叫のような叫び声。博嗣はその場に膝をつき、震える腕で真夏を抱きしめた。その体は驚くほど軽く、温かかった。しかし、温もりは少しずつ奪われていく。 「生きて、ください……博嗣さま」  掠れた声が博嗣の耳元で囁く。微笑む唇は血に濡れていた。 「私の命で、あなたが生きるのなら、悔いは、ありません……」  白く細い指が、そっと頬に触れる。その指先が今にも消え入りそうに震えていた。 「なぜ……なぜこんな!」  博嗣の叫びに、風が再び吹き荒れる。山が泣いているかのように木々がざわめき、霧が一層濃くなる。  ――その叫びを引き裂くように真夏は目を覚ました。  息が荒い。胸が苦しい。夢の中で矢を受けた痛みが、今もそのまま残っているかのようだった。額にはびっしょりと汗が滲み、喉はからからに渇いている。 「……う、あ……っ」  言葉にならない声が漏れた。視界が滲んでいる。気づけば頬に涙が流れていた。枕は既に濡れている。熱くもなく、冷たくもなく、ただただ静かに涙だけが流れ続ける。  夢――なのに、現実のようだった。  いや、むしろあれは”記憶”なのではないかという感覚が、心の奥でじんじんと疼いていた。名を呼び、庇い、そして矢を受けた自分。抱きとめ、叫ぶあの人。 (俺は……あの人を守るために……)  胸に残る重み。微笑みと温もり。そして「博嗣さま」と呼ぶ自分の声――その響きが耳の奥に残っている。名前を思い出した。  目を閉じれば、再び霧の中に戻ってしまいそうだった。 「会いたい……」  初めて口にした本音だった。  夢の中の彼に、ではない。かつて命をかけても守りたかったあの人に。記憶の彼に。そして、今もきっとどこかで生きている”博嗣”という存在に。  真夏は胸元を押さえ、布団の中で小さく身を丸めた。夢で流した涙が、目覚めた今も止まらなかった。胸の奥で疼くのは矢の痛みではない。きっと、まだ思い出しきれない過去と再び会いたいという願いが、形になれずに溢れているのだ。

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