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現代の伝説7

 朝。町はまだ静かで、遠くで鳥のさえずりが聞こえるだけだ。  真夏は洗面台の前に立ち、鏡の中の自分と向き合っていた。夢で起きて寝不足感は否めないけれど、その瞳には昨夜までにはなかった静かな決意が宿っていた。 「……あの人を、俺は守ろうとして死んだんだ」  ぽろりと口からこぼれた言葉に頷く。  昨夜見た夢――いや、記憶だ。あれは断片ではあるけれど、”かつての自分の最期”だった。矢を受け、博嗣の腕の中で命を落とした自分の姿。  思い出せずにいた名前が、もう自然に口にできる。    ――博嗣さま  あの人は鬼だった。人ではなかった。それでも自分は彼を庇った。命をかけて守った。その想いだけは、時を超えても確かに自分の中に生き続けていた。 「次は、ちゃんと会いに行く」  そう呟いて、鏡の中の自分を真っ直ぐに見返す。もはや迷いはなかった。  真夏は静かに洗面所を離れ、荷物をまとめ始めた。まだ山へは向かわない。今は1度東京に戻る。それが、再び大江山に入るための準備になると感じていた。  宿で朝食を食べるとすぐに電車に乗り、東京を目指した。  車窓の向こうに見慣れた景色が見えてくる。山の稜線、田端の緑、時折現れては過ぎて行く家々の屋根。真夏はぼんやりとそれらを眺めながら、新幹線の振動に身を任せていた。  体の疲れはまだ抜けていないけれど、心は静かだった。妙な焦燥も、混乱もない。ただ、どこか遠くの方で何かが収まるべきところに収まった、そんな感覚があった。 (俺は本当にあの人を守ろうとして死んだんだ。あの人が会うことに消極的なのはそれがあるからかもしれない)  守ろうとして死んだこと。それは真実だと自分の中で揺るぎなく感じる。昨夜の夢は映像のように、頭の中で何度も再生された。矢の音、緋色の狩衣に滲む血、抱きとめてくれた腕の温もり。そして彼の泣き声。 (博嗣さま……)  あの人は確かに鬼だった。けれど、恐ろしい存在ではなかった。あの人の瞳の奥には、寂しさと、優しさと、深い悲しみがあった。 「今度こそ、会いに行くから」  真夏は小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。  夢で見た景色に今度は現の世界で、自分の足で行く。夢通うのではなく、現実のあの人に会う為に。  列車がトンネルに入る。一瞬、景色が消えた。窓に映るのは真夏自身の顔だった。静かな目をしていた。夜の涙の跡も、よく眠れなかったことも、もう遠い過去のことに感じる。今朝方のことなのに。  トンネルを抜けると、眩しい光とともに視界が開ける。そこには変わらず流れ続ける風景。けれど、心の中はほんの少し変わっていた。  やがて東京が近づく。真夏は鞄の中にある資料のファイルに目を落とす。博物館で見た展示、民話の断片、そして山の伝承。それらを繋ぎ合わせれば、過去の自分と彼の記憶がもう一段深いところで結びつく気がした。  ほとんど思い出した。でも、まだ思い出せていない何かがある気がした。けれど、思い出すことに恐怖はない。全て思い出したらあの人に現で会えるから。  ――千年を超えて、もう一度会うために。   

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