80 / 99
現代の伝説7
朝。町はまだ静かで、遠くで鳥のさえずりが聞こえるだけだ。
真夏は洗面台の前に立ち、鏡の中の自分と向き合っていた。夢で起きて寝不足感は否めないけれど、その瞳には昨夜までにはなかった静かな決意が宿っていた。
「……あの人を、俺は守ろうとして死んだんだ」
ぽろりと口からこぼれた言葉に頷く。
昨夜見た夢――いや、記憶だ。あれは断片ではあるけれど、”かつての自分の最期”だった。矢を受け、博嗣の腕の中で命を落とした自分の姿。
思い出せずにいた名前が、もう自然に口にできる。
――博嗣さま
あの人は鬼だった。人ではなかった。それでも自分は彼を庇った。命をかけて守った。その想いだけは、時を超えても確かに自分の中に生き続けていた。
「次は、ちゃんと会いに行く」
そう呟いて、鏡の中の自分を真っ直ぐに見返す。もはや迷いはなかった。
真夏は静かに洗面所を離れ、荷物をまとめ始めた。まだ山へは向かわない。今は1度東京に戻る。それが、再び大江山に入るための準備になると感じていた。
宿で朝食を食べるとすぐに電車に乗り、東京を目指した。
車窓の向こうに見慣れた景色が見えてくる。山の稜線、田端の緑、時折現れては過ぎて行く家々の屋根。真夏はぼんやりとそれらを眺めながら、新幹線の振動に身を任せていた。
体の疲れはまだ抜けていないけれど、心は静かだった。妙な焦燥も、混乱もない。ただ、どこか遠くの方で何かが収まるべきところに収まった、そんな感覚があった。
(俺は本当にあの人を守ろうとして死んだんだ。あの人が会うことに消極的なのはそれがあるからかもしれない)
守ろうとして死んだこと。それは真実だと自分の中で揺るぎなく感じる。昨夜の夢は映像のように、頭の中で何度も再生された。矢の音、緋色の狩衣に滲む血、抱きとめてくれた腕の温もり。そして彼の泣き声。
(博嗣さま……)
あの人は確かに鬼だった。けれど、恐ろしい存在ではなかった。あの人の瞳の奥には、寂しさと、優しさと、深い悲しみがあった。
「今度こそ、会いに行くから」
真夏は小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
夢で見た景色に今度は現の世界で、自分の足で行く。夢通うのではなく、現実のあの人に会う為に。
列車がトンネルに入る。一瞬、景色が消えた。窓に映るのは真夏自身の顔だった。静かな目をしていた。夜の涙の跡も、よく眠れなかったことも、もう遠い過去のことに感じる。今朝方のことなのに。
トンネルを抜けると、眩しい光とともに視界が開ける。そこには変わらず流れ続ける風景。けれど、心の中はほんの少し変わっていた。
やがて東京が近づく。真夏は鞄の中にある資料のファイルに目を落とす。博物館で見た展示、民話の断片、そして山の伝承。それらを繋ぎ合わせれば、過去の自分と彼の記憶がもう一段深いところで結びつく気がした。
ほとんど思い出した。でも、まだ思い出せていない何かがある気がした。けれど、思い出すことに恐怖はない。全て思い出したらあの人に現で会えるから。
――千年を超えて、もう一度会うために。
ともだちにシェアしよう!

