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貴方を思い出した6

 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を静かに照らしている。空は青く、夏の空の色をしている。外からは車の音、電車の音、人の気配、そんな物が部屋に入ってきて、ここが東京なのだと思い知る。そう、これがいつもの東京の朝だ。けれど、真夏の胸の中には全く違う「新しい朝」が訪れていた。  目が覚めた瞬間、全てが静かに繋がっていた。夢で見てきた断片、胸の奥に残っていた感情。そして言葉の余韻。それらがひとつに結びつき、過去と現在が地続きの記憶として存在していることを真夏はようやく理解した。  霞若と呼ばれていた自分。博嗣と過ごした日々。そして、博嗣を庇って矢に射たれた最期の場面。全身が震えるような感覚と共に、それが”夢”ではなく、”過去、確かにあった現実”として受け入れている。  真夏はゆっくりと体を起こし、まだ早朝の空気が残っている部屋の中で洗面所へと行った。  鏡の前に立つ。そこにはぼんやりとした寝起きの顔が映っている。その中で何よりも変わったのは目だった。昨日までのどこか曇ったような目ではなく、そこには過去と現在の両方を見つめる眼差しが宿っていた。 「次はちゃんと現実で会いに行く」  静かに、けれど確かな決意を込めて鏡の中の自分にそう誓う。もう逃げない。もう夢の中だけで満足したフリはしない。博嗣に、自分の意思で会いに行く。過去を思い出して、それでも彼の前に立ちたい。  夢の中で博嗣は言った。「全てを思い出したら現で会おう」と。その言葉が真夏の胸の奥で静かに灯っている。約束のように。あるいは再会のための鍵のように。  顔を洗い、冷たい水で肌を引き締めると、不思議なほど心が落ち着いていた。昨夜までのざわめきが嘘のようだった。記憶を思い出したことは痛みを伴うはずだったのに、今はどこか温かい。  かつての記憶の中、山を降りる前の夜。博嗣が自らの龍笛を霞若に手渡した。 「戻って来い。忘れるな」  そう言った声と表情を真夏は今も鮮明に思い出せる。けれど、あの龍笛はもう手元にはない。なにせ千年以上も前のことだ。現代に残っているはずもなかった。それでも不思議と喪失感はなかった。なぜなら、あの瞬間の想い――交わされた言葉と託された願いは、形あるもの以上に確かに心の中に残っていたから。 「俺は忘れてなかった。たとえ意識には残っていなかったとしても、あの人のことをずっと……」  声に出してみると、それが紛れもない真実だとわかる。記憶という引き出しの奥に、夢の断片にあの人の影はずっとあった。それを無意識のうちに探していた自分に、ようやく気がついた。  コーヒーメーカーのスイッチを入れると、コーヒーの良い香りが立ち上がる。いつもの朝と変わらないルーティーン。けれど、違うことがひとつある。それは”再会へ向かう朝”だ。  大江山から帰ってきたばかりだけど、全てを思い出した今、早く戻りたい。今日、1人でまた大江山へ向かう。自分の足で、あの場所へ。祠のあるあの山へ。夢で見た、博嗣が真夏のために建ててくれたあの場所へ。きっと迷うことなく行かれるはずだ。  彼がどこにいるのかはわからない。けれど、あの祠へ行けば会えるはずだ。だって、夢の中で教えてくれたのは彼だ。 「必ず会いに行くから。だから、待っていて」  真夏は小さくそう呟くと、マグカップにコーヒーを注ぎ、両手で包み込んだ。朝の光が部屋の中に差し込み、その背を静かに後押ししているかのようだった。

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