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一、山路来て何をしのべと
夏の日差しが強くなり始めた頃、愛流は一人、ぼろぼろのリュックひとつで田舎の駅に降り立った。
空は妙に高く、蝉の声はうるさいほどに響いているのに、それでも――東京の喧騒よりずっと静かに思えた。
「やっぱ田舎、空気うめぇ……」
駅前の自販機で缶コーヒーを買って、一気に流し込む。冷たさが喉を通る感覚が、少しだけ現実に引き戻してくれるようだった。
スキニーパンツ、ダボシャツ、金髪ピアス。街中にいたならばどこにでもいそうなチャラついた若者。だがその目には、どこか疲れた光が宿っていた。
久しぶりの〝帰省〟だった。もっとも、帰る家などもうない。
父親は数年前に死んだ。酒と煙草と不摂生。病気というより、自滅というやつだった。
母親のもとに引き取られたが、それが正解だったかどうか、いまでも分からない。
「……まぁ、どっちでもいいか」
愛流は、肩をすくめて笑った。
この田舎にだって、別に懐かしさがあるわけじゃない。ただ――ひとつだけ、思い出せる場所がある。
まだガキだった頃、殴られて、食わせてもらえなくて、逃げ出して、迷い込んだ山の中。
そこで出会った〝だれか〟。
記憶はぼんやりしている。あたたかくて、白くて、ふわっとしていて――
なんだか、夢の中のことみたいだった。
◆
「うわ、なっっつ……」
草をかき分け、山道を登っていくと、小さな祠が姿を現した。
丸く削れた石段に、崩れかけた木の鳥居。祠の屋根も歪んでいて、今にも崩れそうだ。
「まだあったんだ……っつーか、誰も手入れしてねーのかよ」
スニーカーの紐を締め直して、草を引き、落ち葉を掃く。
小さな台の上に、自販機で買った小さいお菓子を供えると、両手を合わせた。
「……久しぶり。前にここ来たの、……たぶん、十年くらい前」
神に祈るというより、ひとりごとのように。
それでも、不思議と空気がやわらかくなるような気がした。
しゃら、しゃら――
風が吹いたわけでもないのに、どこからか鈴のような音が聞こえた。
あの日の夜、聞いたのと同じような。
愛流の胸の奥が、じんわりと温まった。
「……奥に、水の音がする」
耳を澄ませば、せせらぎの響きが聞こえてくる。
記憶の中で、あの白い誰かは、きっと水のある場所にいた。
「行ってみっか」
草を分けるたび、湿った空気と木々の匂いが肌にまとわりつく。
だがそれが不快ではなかった。どこか懐かしい感覚に、足は自然と奥へ向かった。
そして、森の奥――木々の隙間から、水のきらめきが見えた。
「うわ、マジであるんだ、こういうの……!」
そこにあったのは、小さな湖のような静かな池だった。
水は透明で、木々の緑を映して静かに揺れている。虫の音と、水のせせらぎだけが響いていた。
「……回復スポット、爆誕って感じ」
バサ、と上着を脱いで、池の縁にしゃがみ込む。水をすくって顔を洗うと、熱が少し引いたように感じた。
「……あれ?」
水面が、ゆらりと揺れた。
反射する陽光の向こうから、人影が現れた――全裸のままで。
「…………は?」
その〝男〟は、白い肌に青みがかった長い髪をなびかせ、
まるで湖そのものから生まれたように、水面からするりと現れた。
細く、美しく、どこか儚く、それでいて〝人ならざる〟気配を纏っていた。
神々しさと、エロティックさが同居した、不思議な美しさだった。
陽光に濡れた肌は真珠のように光り、長い髪が水を滴らせて流れ落ちる。
全裸である。
下まで、ちゃんとついている。
「――っっっっっっ!?」
愛流は咄嗟に顔を背け、よろけて後ずさった。
そして――足元の石に躓き、バランスを崩す。
「うわっ――」
ガンッ!
後頭部に鋭い衝撃が走り、視界が歪む。
その瞬間、誰かが駆け寄った気配があった。
水が跳ねる音。やわらかな匂い。胸元に手が伸びる――
あ、これ、……また、あのときみたいだ……
遠のく意識の中で、懐かしい温もりに包まれていく。
子どもの頃、守ってくれた、〝白い誰か〟。
――まさか、こんなカタチで再会するなんて。
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