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二、神の御前に立ちぬれば
柔らかな香りが鼻をくすぐった。
あたたかい。ふわふわしていて、空気がどこか甘やかだ。
ぬるま湯の中で目を覚ましたような心地よさに、愛流は目をゆっくりと開けた。
「……ん……?」
天井――ではない。
竹や木が組まれたような、自然素材でできた天井。外ではないが、屋内とも言い難い。
空間全体が、ほんのりと淡い光に満たされている。日差しでも、灯でもない、不思議な明るさだった。
「……夢、じゃねーよな」
ごろりと身体を起こすと、背中に敷かれていたのは苔のような、けれど乾いていて柔らかい草布団。
痛みも、寒さも、なぜかもう感じなかった。
――と。
「起きたのですか」
その声は、背後から。
振り返ると、そこにいたのは――またしても全裸の男だった。
「いやいやいやいや……! 服着ろ!!」
思わず叫んだ愛流に、男はわずかに目を瞬かせた。
「……人は、そういうものを気にするのですね」
「気にするだろ! こっちはまともな社会で育ってんだよ!」
「ふむ……」
呟いて、男はゆっくりと立ち上がる。
光の中にすら透けるような肌と、腰にかかる淡い青緑の髪が揺れた。
神々しくすらある姿に、思わず目を奪われそうになるが――全裸であることには変わらない。
「……まあ、そうならば」
男は床に脱ぎ捨てられていた白い衣を手に取り、さらりと身にまとった。
袖を通し、帯を結ぶその仕草は、まるで舞うように優雅だった。
「衣を纏うことに、さほど意味はなかったのですが……人間は、そういう形を好むのですね」
「いや……ありがと……」
ようやく視線を戻せるようになった愛流は、白衣姿の男をじっと見つめた。
どこかで、見たことがある。
この静けさ、この目の色、肌のあたたかさ――
「……おまえ、……いや、あんた、前に……」
「ようやく、思い出しましたか」
柔らかく、けれどどこか懐かしい声だった。
「……ガキの頃、……ここで、会った……あんたが……」
「そうです。そなたは、あのとき、痣だらけで、泣きながらここに来たのです」
男は、床に膝をつき、愛流と目の高さを合わせた。
金の瞳が、やさしく細められる。
「久しい……あんなに小さかったのに、今ではずいぶん背も伸びたようで」
「……子供扱いすんなよ……」
ふいにムッと口を尖らせる愛流に、男はくすりと微笑む。
「しかし、そちがあのとき言ったことは、いまでも覚えていますよ」
「……なに、言ったっけ」
「〝ここにいると、あったかい〟と、言っていました」
ぽつりと告げられたその言葉に、愛流は肩を震わせた。
ふざけるでもなく、笑い飛ばすでもなく、ただ、言葉が喉の奥で止まった。
「そういえば、そなたの名前をまだ聞いていないですね」
「ん、俺? 俺は愛流っていうんだ」
「……あい、る?」
微妙な沈黙。
名乗ればほとんど同じ反応を返される。
「〝愛が流れる〟って書いて〝あいる〟って読むんだ。ま、親がどうせ音だけでつけたんだろ」
愛流の言葉に、男は微かに眉をひそめる。
「……本来、愛は、流れてはいけないものだと思っていました。けれど……」
視線を合わせたその瞬間、男はほんの少し笑った。
「……そなたがこの名なら、きっと、流れて届く先があるのでしょうね」
「……あんたの、名前は……?」
「わたし……? わたしは、そうですね……〝みもり〟と、呼んでください」
「みもり」
そう答えた男――みもりは、ゆっくりと立ち上がり、白衣の裾を揺らした。
「……都会で、つらいことがあったのでしょう。今は、ここでしばし休みなさい。空腹も、痛みも、しばし忘れてよいのです」
そして、白い手が、再び愛流の肩に触れる。
その瞬間、あのときと同じ、ぬくもりが流れ込んできた。
「……なんで……こんな、不思議なことが……できるんだ?」
「……そうしたいとわたしが願うと、そうなるものです」
愛流の身体が、するすると脱力していく。
そのまま、みもりの膝に頭を預ける形になる。
「……なあ、……ここ、ほんとに、夢じゃないんだよな……?」
「夢ではない。けれど、夢のような場所にはしておきましょう。……そなたが、傷ついたまま戻るのは、惜しいので」
目を閉じた愛流の頬に、そっと指が触れた。
それは、慈しみというにはあまりに深く、
そして――誰よりも静かな、愛のようだった。
「……みもり」
「なんですか」
「……俺、また、ここに来ていいか?」
問いかけに、みもりの手がそっと愛流の髪を撫でた。
「いつでも、おいで――愛流」
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