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四、心の奥の闇深く
その夜、空には雲がかかっていた。
虫の音は少なく、代わりに木々がざわざわと鳴いていた。
風が山の奥へと吹き抜けるたび、祠のまわりの草がかすかに揺れる。
愛流は、手持ちのランタンを祠の傍らに置いていた。
その光に照らされて、満守の白い衣がぼんやりと浮かび上がる。
静かに座るその姿は、まるで灯籠の炎のように静かで、どこか心を落ち着ける存在だった。
「なあ」
ふと、愛流が口を開いた。
「満守って、ずっとこの祠にいるのか?」
「そうです。人がわたしをここに祀った。わたしはそれを受け入れ、留まりつづけてきた。……それが、望まれたことでしたから」
満守の声はいつもと変わらず穏やかだったが、どこか遠くを見ているようだった。
「……寂しくなかった?」
「寂しさは、過ぎる時間のなかで、すでにわたしの一部です。もはやそれを問うことに、意味はないのですよ」
「……そっか」
言葉を閉じると、しばし沈黙が流れる。
ランタンの火が、パチリと小さくはじけた。
「……あのさ」
愛流が、草の上に寝転がるようにして横になった。
背中には苔のようなやわらかさがあり、身体が沈み込んでいく。
「満守って、……やっぱ綺麗だよな。見た目も、話し方も、……全部が」
満守が目を伏せる。その横顔を、愛流はまっすぐに見つめていた。
「昔は、もっと可愛かった気がすんだけど。いまは……すげぇ、色気あるっつーか」
「……褒めているのでしょうか?」
「褒めてんだよ」
愛流は、静かに起き上がって満守の隣に座り直す。
「満守のこと、子どもの頃から、忘れたことなかった。あのとき、助けてくれて、初めて……ちゃんと〝あったかい〟って思えた」
そっと、満守の頬に手を添えた。
「だから、もう一回、会えてよかった」
そのまま――キスをした。
満守は驚いたようにわずかに目を見開いたが、拒みはしなかった。
触れた唇はやわらかく、しかし一瞬で愛流の方が引いてしまった。
「……ダメか?」
愛流が小さく笑って尋ねる。
「……いえ。驚いただけです。そなたから先に触れてくるとは、思っていなかったので」
「直感と思い立ったが吉日が信条なんだわ」
「愛流らしき行動ですね……」
二人は、少しだけ笑った。
だが、満守の指先が、そっと愛流の手に触れたとき――その指が、微かに震えた。
「……愛流」
「ん?」
「――そちの笑顔は、いつも、どこか空虚です」
その言葉に、空気が止まる。
「……なに、それ」
「そなたは、よく笑う。軽く見える。どこにでも馴染む。しかし……目が、笑っていない。そなたの心には、深く空いた穴があるのです」
「……」
「それは、わたしが見た、そなたの〝願い〟がそう語っています」
愛流は、ふと笑った。
その笑みは、どこか苦しげで、空々しかった。
「……だってさ。しょうがねーじゃん。父親は死ぬまで殴ってきたし、母親は――オレのことなんか見てなかった。……それでもさ、嫌われたくなくて、笑うしかなかったんだよ」
ぽつりぽつりと、言葉がこぼれる。
「誰を抱いても……抱かれても。全部、〝繋がってる〟気がしてた。……心じゃなくて、身体だけでも、誰かに求められれば、……ちょっとだけ、埋められる気がしたんだ」
その告白は、静かな夜の空気を切り裂いた。
満守は何も言わず、ただ、愛流の手を取った。
そのまま、抱き寄せる。
「そなたの〝空洞〟は、誰かが埋められるものではありません。しかし、わたしならば――」
満守の声が、耳元にふわりと落ちる。
「……満たすことが、できる」
その一言で、愛流の目が見開かれた。
次の瞬間には、満守がその唇を奪っていた。
先ほどのような軽いものではない。
深く、息を奪うような、満たす側のキスだった。
愛流の背中が震える。
泣きそうになりながら、唇を重ね返す。
そのまま、満守の身体に抱きしめられるようにして、愛流は静かに横たえられた。
満守の手が、愛流の頬を包む。その指先は暖かく、優しく、まるで壊れ物を扱うような慎重さがあった。
「愛流……」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなる。
今まで誰にも言われたことのない、慈しむような声音だった。
「わたしが、そなたを愛しましょう」
その言葉と共に、満守の唇が愛流の首筋に降りる。
熱い息が肌を撫でて、愛流の身体が震えた。
「ん……満守……」
今まで感じたことのない感覚だった。
誰かに求められるのではなく、誰かに愛されている。
その実感が、少しずつ愛流の心の隙間に染み込んでいく。
満守の手が、愛流の身体を包み込むように撫でる。
急かすことなく、ただひたすらに優しく。
「……怖くはないですか?」
「……ん、へーき」
その問いかけに、愛流は涙が出そうになった。
本当に、その通りだった。
「……うん」
「ならば、ゆっくりと。そなたに合わせましょう」
満守の優しさに、愛流の心の氷が溶けていく。
身体を重ねながら、初めて「愛されている」という実感を噛み締めた。
――今宵、神は人を抱く。
愛されたことのない青年の空洞に、
初めて、「あたたかさ」が注がれていく。
それは、傷を塞ぐのではなく、
空虚そのものに、「在る」という証を刻むような、行為だった。
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