5 / 6

四、心の奥の闇深く

 その夜、空には雲がかかっていた。  虫の音は少なく、代わりに木々がざわざわと鳴いていた。  風が山の奥へと吹き抜けるたび、祠のまわりの草がかすかに揺れる。  愛流は、手持ちのランタンを祠の傍らに置いていた。  その光に照らされて、満守の白い衣がぼんやりと浮かび上がる。  静かに座るその姿は、まるで灯籠の炎のように静かで、どこか心を落ち着ける存在だった。 「なあ」  ふと、愛流が口を開いた。 「満守って、ずっとこの祠にいるのか?」 「そうです。人がわたしをここに祀った。わたしはそれを受け入れ、留まりつづけてきた。……それが、望まれたことでしたから」  満守の声はいつもと変わらず穏やかだったが、どこか遠くを見ているようだった。 「……寂しくなかった?」 「寂しさは、過ぎる時間のなかで、すでにわたしの一部です。もはやそれを問うことに、意味はないのですよ」 「……そっか」  言葉を閉じると、しばし沈黙が流れる。  ランタンの火が、パチリと小さくはじけた。 「……あのさ」  愛流が、草の上に寝転がるようにして横になった。  背中には苔のようなやわらかさがあり、身体が沈み込んでいく。 「満守って、……やっぱ綺麗だよな。見た目も、話し方も、……全部が」  満守が目を伏せる。その横顔を、愛流はまっすぐに見つめていた。 「昔は、もっと可愛かった気がすんだけど。いまは……すげぇ、色気あるっつーか」 「……褒めているのでしょうか?」 「褒めてんだよ」  愛流は、静かに起き上がって満守の隣に座り直す。 「満守のこと、子どもの頃から、忘れたことなかった。あのとき、助けてくれて、初めて……ちゃんと〝あったかい〟って思えた」  そっと、満守の頬に手を添えた。 「だから、もう一回、会えてよかった」  そのまま――キスをした。  満守は驚いたようにわずかに目を見開いたが、拒みはしなかった。  触れた唇はやわらかく、しかし一瞬で愛流の方が引いてしまった。 「……ダメか?」  愛流が小さく笑って尋ねる。 「……いえ。驚いただけです。そなたから先に触れてくるとは、思っていなかったので」 「直感と思い立ったが吉日が信条なんだわ」 「愛流らしき行動ですね……」  二人は、少しだけ笑った。  だが、満守の指先が、そっと愛流の手に触れたとき――その指が、微かに震えた。 「……愛流」 「ん?」 「――そちの笑顔は、いつも、どこか空虚です」  その言葉に、空気が止まる。 「……なに、それ」 「そなたは、よく笑う。軽く見える。どこにでも馴染む。しかし……目が、笑っていない。そなたの心には、深く空いた穴があるのです」 「……」 「それは、わたしが見た、そなたの〝願い〟がそう語っています」  愛流は、ふと笑った。  その笑みは、どこか苦しげで、空々しかった。 「……だってさ。しょうがねーじゃん。父親は死ぬまで殴ってきたし、母親は――オレのことなんか見てなかった。……それでもさ、嫌われたくなくて、笑うしかなかったんだよ」  ぽつりぽつりと、言葉がこぼれる。 「誰を抱いても……抱かれても。全部、〝繋がってる〟気がしてた。……心じゃなくて、身体だけでも、誰かに求められれば、……ちょっとだけ、埋められる気がしたんだ」  その告白は、静かな夜の空気を切り裂いた。  満守は何も言わず、ただ、愛流の手を取った。  そのまま、抱き寄せる。 「そなたの〝空洞〟は、誰かが埋められるものではありません。しかし、わたしならば――」  満守の声が、耳元にふわりと落ちる。 「……満たすことが、できる」  その一言で、愛流の目が見開かれた。  次の瞬間には、満守がその唇を奪っていた。  先ほどのような軽いものではない。  深く、息を奪うような、満たす側のキスだった。  愛流の背中が震える。  泣きそうになりながら、唇を重ね返す。  そのまま、満守の身体に抱きしめられるようにして、愛流は静かに横たえられた。  満守の手が、愛流の頬を包む。その指先は暖かく、優しく、まるで壊れ物を扱うような慎重さがあった。 「愛流……」  名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなる。  今まで誰にも言われたことのない、慈しむような声音だった。 「わたしが、そなたを愛しましょう」  その言葉と共に、満守の唇が愛流の首筋に降りる。  熱い息が肌を撫でて、愛流の身体が震えた。 「ん……満守……」  今まで感じたことのない感覚だった。  誰かに求められるのではなく、誰かに愛されている。  その実感が、少しずつ愛流の心の隙間に染み込んでいく。  満守の手が、愛流の身体を包み込むように撫でる。  急かすことなく、ただひたすらに優しく。 「……怖くはないですか?」 「……ん、へーき」  その問いかけに、愛流は涙が出そうになった。  本当に、その通りだった。 「……うん」 「ならば、ゆっくりと。そなたに合わせましょう」  満守の優しさに、愛流の心の氷が溶けていく。  身体を重ねながら、初めて「愛されている」という実感を噛み締めた。  ――今宵、神は人を抱く。  愛されたことのない青年の空洞に、  初めて、「あたたかさ」が注がれていく。  それは、傷を塞ぐのではなく、  空虚そのものに、「在る」という証を刻むような、行為だった。

ともだちにシェアしよう!