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第一章 4 夢と現実のせめぎ合い

4 夢と現実のせめぎ合い  淫液で濡れた布団にたった一人であぐらをかいて、殻を半分剥いたゆで卵を貪っている自分。  その浅ましい姿に我に返ってゾッとしかけた時に玄関のチャイムが鳴ったのは幸いだった。取り返しのつかない地獄の思考に捕われる前に現実が目の前に現れたのだ。 「松橋さん、お部屋の具合はどうかしら?」  大家のおばさんが、礼司が空けた戸の隙間から室内を覗き込んでいる。赤縁メガネの下にある瞳は好奇心たっぷりにきょろきょろ動いている。 「あ、は……まだ荷物を片づけてて……」  曖昧な返事を返す礼司にまたおばさんは、廊下側のドアの下方を見やっている。 「ごめんなさいねえ。昔いた人が蹴飛ばしちゃってねえ。ううん住んでた人じゃなくて、知り合いの人が……早く直したかったんだけど」 「いえ、別に……外側がちょっと凹んでいるだけだし」 「睡眠薬を飲み過ぎて起きて来なくて。だからドアを叩いたり蹴ったりしたんですって」 「はあ……」 「松橋さんは、ちゃんと眠れている? 引っ越したばかりで慣れないこともあるでしょう?」  にわかに目を直視されて言葉を飲み込む。  ふと自分がブリーフの上にパーカーを着ただけであることに気づく。パーカーの裾を思い切り引き下げて、気まずくきょろきょろしていると玄関先の床に変な染みが点々と散っていることに気づく。  さっさとこの大家を返さなければ……室内の惨状を見られたくない。  思う礼司と裏腹に大家はドアの隙間に足先を挟み込まんばかりにして中を覗いている。 「あの、お陰様で……何とかやってます。今もご飯を食べてたとこです」  言った途端にどこからともなくチャイムの音が響いた。 おばさんはドアの外を振り返って、 「あら、ちょうどお昼のチャイムだわね。お食事時にごめんなさいねえ」  謝りながらも言葉を続けた。 「ううん、大したことじゃないのよ。この部屋から変な声が聞こえるって……うるさいとか言うんじゃないけど」 「あっ」と口の形だけで言った。あの淫乱な声が漏れ聞こえていたのだろう。この部屋の両隣にも人は住んでいる。隣人から大家にご注進があったに違いない。 「す、すみません。時々寝ぼけて変な寝言とか……」 「いいのよぉ。前は学生寮で暮らしていたんでしょう? 急に一人になると心細いわよねえ」 「大丈夫です。お騒がせしてすみませんでした。まだ食事の途中なんで……」  礼司はぺこぺこ頭を下げると強引に扉を閉めたのだった。閉ざしたドアの向こうから大家のおばさんはまだ、 「本当に困ったらいつでも相談に来てねえ。大学にはカウンセラーもいるんでしょう? 一人で思い詰めたりしないでねえ。松橋さん」  しつこく言っているのだった。何をそう心配しているのかわからない。  外廊下を大家が遠ざかって行く足音を聞きながらドアに鍵をかける。改めて室内を見渡して「ちゃんとしなきゃ……」誰にともなく呟くのだった。  そんな礼司の言葉に応じるかのごとく、翌日にはネット注文した家電製品やマットレス、布団などが一気に届いた。  部屋の隅に積んであった段ボール箱や衣装ケースも開けて、改めて室内を整える。何しろ学生なのである。勉強机はマストである。机上にパソコンやブックエンド、ペントレイ等も並べる。横には木製シェルフを組み立てて据え置いた。  だが礼司が妙にこだわったのは床に直接マットレスを置いたベッドだった。傍らには木製の小引き出しを置いた。上にはティッシュケースを置き、二段の引き出しの中にはコンドームにローション、ポディクリームなどを入れ、誤注文なのか何故か届いた赤いネクタイもとりあえず納めた。  見上げれば机やシェルフが学生らしさを演出しているが、ベッドに居れば単なるヤリ部屋にしか見えないのだった。思わずベッドの脇に座卓を据えてクッションなども並べてみる。ここで食事をとって、ベッドに入ればいいのだ(誰と?)。  そうこうしているうちに妙に懐かしいメロディが響いて来る。この辺では正午にチャイムが、夕方五時には〝遠き山に日は落ちて〟が流れるのを知る。  遠き山に日は落ちて  星は空を散りばめぬ  今日のわざを成し終えて  心かろくやすらえば  風は涼しこの夕べ  いざや楽しきまどいせん   (作曲・ドヴォルザーク 作詞・堀内敬三)  小学校のキャンプで歌った詩である。  妙に懐かしく小声で口ずさんでいたが、玄関先につくねてある古い布団を目にするやまた気分がうち沈むのだった。淫行の果てにすっかり湿って干しても間に合わない無惨な姿である。  あの頃は布団が濡れるのはおねしょでしかなかったのに。そして好きなのが男でも女でもさして問題がなかったはずなのに。  ため息交じりに布団を担いでアパート脇のゴミ捨て場に行く。これがなければもうあの美青年の(あやかし)は現れないに違いない。などと願ってわざと雑に布団を打ち棄てるのだった。  部屋に戻るのを待っていたようにLINEメッセージが届いた。 〈明日は大学に行くでしょう? ヒストリア・グルニエの集会日だよ〉  関祐奈(せきゆうな)。彼女からの連絡だった。 〝ヒストリア・グルニエ〟とは礼司や裕奈が所属しているサークルである。 〝ヒストリア〟は古代ギリシャ語で歴史〝グルニエ〟はフランス語で屋根裏部屋。直訳すれば、歴史の屋根裏部屋である。  特に深い意味はなくカッコよさげな単語を並べただけである。活動内容も推して知るべし。  とりあえず新入学の季節には地元の歴史散歩をするものの、後はテニスにキャンプにスキーと遊び主体のサークルである。  礼司自身はそういった遊びに特に興味があるわけではない。大学時代にサークル活動をした方が就活に有利と聞いたから、なるべく楽そうなサークルを選んだだけである。  入ってみれば部員達から単位のとりやすい講義だのテストやレポートのコツなどを教えてもらえる。なるほどサークル活動は学生に必須だと思ったりする。  我ながら主体性に欠けると思うが仕方がない。  東北は仙台に生まれ育った松橋礼司の家庭は母が専業主婦で、父は企業内の弁護士として働いている。五才年上の姉も弁護士で仙台法務局に勤めている。  故に礼司も法学部を選んで入った。就活をするかどうかはともかく、家庭環境がこうなのだからいずれ司法試験は受けるのだろうと他人事のように思っている。  正直、礼司の根幹にある悩みは就職や進路ではなく、やはり女性とセックスが出来るかどうかである。青少年としては当然にも思えるが、 「いやいやいや。だから君はゲイだって。いい加減に認めたら?」  どこからともなく聞こえる声にも首を横に振ってしまう。  男とまぐわうことが出来たなら(あれが一人寝の妄想でなければ)女とだって出来るはず。  今度こそ関裕奈の処女を奪ってやるのだ。などと思いつつメッセージにOKのスタンプを返すのだった。  明け方、遠くにオートバイの音を聞く。 ナナハンではない軽い排気音はおそらく250㏄ぐらいの中型バイクだろう。  先輩はいつからナナハンをやめたのだろう?   などと思いながら布団の中で股間に手を伸ばす。朝だから元気になっているものを握って少しく扱きながら覚醒する。  高校時代の先輩は750㏄のオートバイに乗っていた。タンデムで海まで連れて行ってもらったことがある。  礼司の実家は仙台市内だから幼い頃に大きな地震があったことは覚えている。家の中がめちゃくちゃになり停電や断水で惨めな経験もした。  だが東北地方沿岸部の津波被害はそれどころではなかったと後に知る。学校でも悲惨な被害状況を習った。  けれど先輩のナナハンに乗せられて行った海辺の街はすっかりきれいに整備されていた。  そこが先輩の生まれ故郷だと言っていた。あの震災や津波のせいで仙台市内の親戚の家に引き取られたのだと言う。  にかっと笑う口元の歯がきれいな先輩だった。  しかし何だって自分は今更高校時代の男の先輩を思い出しながらマスをかいているのだ? 「だって君はゲイだから……」  どこかで誰かの声が聞こえる。  ぎょっと辺りを見回した途端に射精していた。内心忸怩たる思いで朝の処理を終える。  

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