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第二章 1 ヒストリア・グルニエ

第二章 1 ヒストリア・グルニエ  部屋を出て大学に着くまでに、礼司はまた散々道に迷っていた。 まず月光荘から地下鉄の駅に行くのにちうりっぷ商店街を抜けた途端に迷った。今日はスマホがあるからと安心してマップを頼りに歩いたのだが、どうも逆方向に向かっていたらしい。結局また通行人に聞いて地下鉄駅に辿り着く。  そこから一駅電車に乗って、大学の最寄り駅で下車をする。そうして地上に出ればまた迷子である。  都内の本キャンパスは入学してから数回来ただけである。改めて行くとなればまたマップに助けを求めるのだが、やはり地図がうまく読み取れない。 「おう! どこに行くんだ?」  声をかけたのは向こうを歩いている部長だった。その隣にいる男が、 「マッツン! そっちは大学と逆方向だぞ」  と気安く声をかけて来るが、その五分刈り頭に見覚えはなかった。 「ツクツクだよ。また大学に戻って来るんだと」 部長に紹介されて思い出す。 「ツクツク……有田津久志(ありたつくし)⁉」  まじまじと五分刈り頭を見てしまう。  有田津久志は笑いながら掌で頭を撫でている。じゃりじゃりと小気味よい音がする。昔の有田は腰まで届かんばかりの長髪を襟足で結んでいたのに。  有田と礼司は新キャンパスの男子寮で同室だった。共に新入生だったのだ。二段ベッドの上が礼司で下が有田というのはジャンケンで決めた。  だが一年生の六月頃には、有田は大学を休学して退寮して行った。以後、礼司は二人部屋をずっと一人で使っていた。気楽だけれど少々寂しい寮生活ではあった。  そもそも礼司を〝マッツン〟と呼び始めたのは有田である。松橋という名字だからあだ名は〝マツ〟〝マッサン〟〝マツレイ〟等いろいろあったが〝マッツン〟は初めてだった。  そして有田のあだ名は津久志(つくし)という名前にちなんで〝ツクツク〟になった。礼司が言い出したわけではない。たぶん寮の誰かだろう。  礼司には当意即妙にあだ名を思いつくような才気はない。グループで人の先頭に立つこともめったにない。取り柄といえば真面目さと素直さぐらいである。そこそこ皆と仲良く出来るのは、姉のいる末っ子だからかも知れない。  有田は復学してまた一年生からやり直すと言うのだった。 「え、何で? そもそもツクツクは何で休学したわけ?」  尋ねる礼司は有田に襟首を掴まれた。 「相変わらず方向音痴だな、マッツン」  部室棟とは違う方向に歩いていたらしい。正しい棟に向かう部長について有田と礼司は並んで行くのだった。  旧校舎である部室棟に向かう間に、礼司は有田から休学や復学の事情を聞いていた。  一年生の六月に休学したのは父親が脳梗塞で倒れたからだと言う。 「そんなこと……何も言わなかったじゃないか」  非難がましく言う礼司に、有田はへへへと笑った。 「すまん。俺もあん時はパニクッててさ。とにかく実家に戻るってことしか頭になくてさ」  父親は一命は取り留めたものの半身に後遺症が残り、リハビリ専門病院に転院したが、有田の実家には要介護の祖母がいた。介護は母親や高校生の妹が引き受けていたが、父親が退院して来れば負担はかなり大きい。  そこで有田が休学して手伝うことにしたという。不自由な身体に合せて実家の改修も行った。そんな家計の足しになるように日々アルバイトもしていたという。  そしてこの度、祖母が特別養護老人ホームに入居した。 「親父もぼちぼち仕事に戻れそうなんで、俺も大学に戻ることにしたんだ。入学して二ヶ月しかいなかったから、また一年生の最初から出直しだよ」  また寮に入るのかと尋ねれば実家から通学するとのことだった。山梨県の実家から新キャンパスまでは特急で一時間足らずだという。 「家はおふくろと妹だけだから、男手がないと困ると思ってさ」 「でも、三年生になったらこっちのキャンパスだよ? 三時間ぐらいかかるんじゃない?」 「問題はそれだよな……」  すっかり癖になっているのか、また五分刈り頭をじょりじょり撫でて首をかしげるツクツクである。  部室に入ると、陽の差す窓際に女子部員が群れていた。その中にいる彼女、関裕奈(せきゆうな)が胸元に小さく上げた手を振っている。妙にはにかんだ表情なのを訝しんでから、あっと気づいて礼司も口元を引き結んで頷いたものだった。  呆れたことにすっかり忘れていたのだ。自分が彼女の処女を奪えなかったことを。生れて初めて裸で抱き合ったのに男として何も出来なかった。  と同時に自分がこの数日間、人間なのか何なのか知れない妖と淫乱に抱き合っていたことも思い出していた。いやあれは欲求不満が見せた艶夢に過ぎない。中園龍平などという美青年も自分ででっち上げた妄想に違いない。  狭い部室の黒板に部長は〝新入生勧誘会〟などと白墨で書いている。旧校舎である部室にはホワイトボードなどなく黒板を使っている。話し合うともなく皆が口々に四月からの新入生の勧誘について喋っている。  ふと礼司は立ち上がって、 「どうかな、みんな?」  狭い部室をぐるりと見回していた。  自分は一体何を始めたのだろう?   疑問に思いながらも、礼司の口は勝手に動いている。 「僕、思うんだけど、今年はヒストリア・グルニエの原点に戻ったらどうだろう? 春のウォーキングは毎年新キャンパスあたりの野山を歩いてるけど、都内の歴史散歩をしてみない? せっかく都心の本キャンパスに出て来たんだもの。僕としては、都内を歩いてみたいよ」  皆が唖然としているのは話している内容よりも発言者に対してである。  いつもは人の群れの中に埋もれているマッツンが堂々と自分の意見を述べている? という皆の声が聞こえそうである。  何より礼司自身がそう思っているのだった。一体自分はどうしてしまったのか? 「東京ってまだ江戸の歴史が残ってるんだよ。皇居は江戸城だし、隅田川にかかる橋も、浅草浅草寺も江戸時代からある。そういう歴史散歩をしてこそのヒストリア・グルニエじゃない?」 「どうせ都内を歩くなら、私は六本木や銀座を歩きたいな」  などと女子の声も出て、 「それもあるね。六本木や銀座なら秋の方が気分が上がるかも知れないね。ついでに芸術鑑賞も加えるのもアリかも」  応じる礼司はまるで議長である。内心呆れ果てている礼司とは別の誰かが流暢に話し続ける。  これは妖、中園龍平の仕業なのか?   当の礼司はもとより有田も部長も他の部員達も呆然としている。  ただ一人熱い視線で礼司を見つめているのは裕奈だった。  次回の集会までに〝お江戸歴史散歩〟の草案を書いて来る。礼司は勝手に自分で請け負って、議事を閉めたのだった。  帰りは皆でぞろぞろと大学を出たから迷うことはなかった。女子達と話しながら歩いていた裕奈が近づいて来たのは地下鉄の入り口を下りる時だった。 「礼司くんがみんなの前であんなに喋れるなんて知らなかった」  すかさず礼司は裕奈の肩を抱いて言うのだった。 「裕奈がいると僕は勇気が出るのさ。自分でも信じられないぐらいのパワーだよ」  何だこの台詞は? 「え?」と目を瞬いたのは裕奈だが、礼司もそれに同調したかった。 「僕、悪かったと思ってるんだ。この前は裕奈の期待に応えられなくてごめんね」  思わせぶりに顔を近づけて耳元で囁く。いよいよ裕奈は「ええ?」と頬を真っ赤にしている。  思わず地下鉄の階段を踏み外しそうになった身体を抱き留めて、 「僕は裕奈がいれば何でも出来ると思ってたけど……あの時は逆に緊張しちゃって。本当に悪かったと思ってる」 「やだ、礼司くんたら。私は何とも思ってないんだから。気にしないでよ」 「裕奈ならそう言ってくれると思ってた。だから好きなんだ」  ぬけぬけと言って頬に頬を摺り寄せる。  後からやって来た部員たちから「ヒューヒュー」と声が出る。女子達もきゃあきゃあ騒いでいる。  礼司と裕奈はサークル公認のカップルだったが、こんなにもあからさまにいちゃついて見せたことはない。何しろラブホも嫌う慎み深いカップルなのだ。  なのに礼司ときたら裕奈の腰に手を回して小走りに階段を降りて行くのだ。裕奈は嬉しそうに笑っている声が耳に届く。  だがこれを、この行動をとっているのは礼司本人ではない。自分の中にいる知らない誰か……いや、中園龍平がやっている。 「これから僕の部屋に来ない? 僕、今度こそ裕奈と本当の恋人になりたいんだ」  改札口の前で向き合って完全に抱き合っている二人である。不器用に抱かれていた裕奈は、 「嬉しいけど、ごめんね。これから女子で原宿にパンケーキを食べに行く約束なんだ」  と礼司の身体を押し返すようにする。  そうして部員達が追い付いて来た。一同に見せつけるかのように礼司は、 「残念だな。でも、女子会を楽しんでおいで」  今度はチュッと音高く裕奈の唇にキスをする。  薄暗い地下鉄の構内に部員一同の歓声が響くのだった。 「俺が休んでる間に、マッツンも変わったなあ」  地下鉄のシートに並んで座った有田津久志が感心している。  裕奈ら女子達とは逆方向の電車である。 「一緒に浅草に行かないか? マッツン詳しいみたいだし」  と誘われたのである。  部室の弁舌でそう思ったのだろうが、礼司は浅草はもとより東京などまるで知らない。何しろ仙台の生まれ育ちである。大学入学で上京したかと思えば都下のド田舎に二年間暮らしていたのだ。断ろうとする礼司の味方をするように、 「でも僕、帰ってお江戸歴史散歩の案を練らなくちゃ」  と誰かが口をきいている。妖……幽霊の中園龍平である。  決して礼司の都合を慮っているわけではなく、何故だか今はまだ浅草には行きたくないらしい。    とはいえ有田に、 「親父は若い頃、浅草で働いていたんだと。写真でも見せてやれば、いつか浅草見物するってリハビリのモチベも上がると思ってさ」  そう言われれば頷くしかなかった。  向かいの車窓には並んで座った二人の姿が映っている。その間に黒い巻き毛の美青年の顔が浮かんで見える。 「えっ?」と振り向いた礼司が見たのは、単に暗い窓に映った自分の間抜けな顔である。 「何?」  問われて礼司は首を横に振る。  けれどつい考えてしまうのだ。美青年の幽霊に憑りつかれたとあの淫乱な悪夢を話したら、ツクツクはどう思うだろうか?  オカルト以前にまず同性愛セックスなど気持ち悪いと顔をしかめるに違いない。  何せこの男はかつて学生寮の新入生歓迎会でAV鑑賞会を行ったのである。食堂で行われた公式歓迎会とは別に、大型サイズのディスプレイを持っている先輩の部屋に希望者を集めて男女がまぐわう無修正の映像を披露したのである。  たちまち寮内中にツクツクの名前は広まり、みんなしてその秘蔵映像を借りに来る有様である。  そんな男に同性愛者の幽霊について話せるわけもない。結局礼司は膝の上で自分の手を握りしめるだけだった。

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