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第二章 2 浅草散歩

2 浅草散歩  初めて訪れた浅草なのに道に迷うこともなかった。頭の中の中園龍平が足を操っているらしい。  外国人観光客で混雑している交差点を渡って、赤い大提灯の下がった山門を抜けると仲見世である。人混みをかき分けるようにして金竜山浅草寺に辿り着く。けれど人が溢れんばかりのの本堂を見上げて、 「今日はいいや。本番のお江戸歴史散歩で上がってお祈りすればいいよ」  などと有田はスマホで撮影するだけである。思わず礼司は本音が出る。 「うそ! あの企画ホントにやるの?」 「マッツンが言い出したんだぜ?」 「そうだけど……」  自分ではない。あれは中園龍平が語った弁舌である。それに振り回されている自分はまるで傀儡ではないか。何とも不愉快な気分になる。 「この先に寄席があるんだと。親父は昔、仕事が休みの日に行ったらしい」  促されて礼司は有田の先に立って歩いている。行ったこともない場所なのに。  やがて現れた寄席、浅草演芸ホールは正体不明な古臭い見世物小屋だった。なまこ壁の建物の前には何本もの幟が並び、軒下には提灯がぶら下がっている。 「マッツンも写真撮ろうぜ」  寄席を背景に自撮りをしていた有田は礼司に近づいて、二人を納めるアングルに苦労している。 「よろしかったらお撮りしましょうか?」  そこに声をかけて来たのは若い女性だった。上品な言葉遣いはまるで深窓のご令嬢である。とはいえ観光客にも見えない。 「この位置で少し低めから仰いで撮ると幟も入れたアングルになりますわよ。お二人も写すなら、こちらにお立ちになって」 などと得意気に言うのは寄席の関係者なのだろうか。 「ほら、マッツン。撮ってもらおうぜ」  有田に腕を引かれて視点が変わった。  道の奥からこちら目指して歩いて来る観光客達。その中の一人に視線が引き寄せられた。 「はい、スマイル!」と女性がシャッターを押している。  だが既に礼司の意識からは女性も有田も消えていた。ただ一人を凝視して身動きがとれなくなっている。  人混みの中をゆったりと歩いて来る男性である。上背がある姿は黒づくめの衣装である。黒いジャケット黒いデニム黒いスニーカー。背負っているザックも黒らしい。  唯一白いのは時々足元に覗くソックスである。おそらくGU、ユニクロ、無印良品といったリーズナブルな衣類だろう。  黒服の男も気づいたらしく歩く焦点を礼司に絞った。そうして目の前で足を止めるなり、 「来たのか……龍平」  低く柔らかい声だった。  和風な顔立ちに鋭い瞳が際立っている。まるで名人の彫師が一閃の下に彫ったような一重瞼である。その目が糸のように細くなり、微笑んだ。一気に表情が柔らかくなる。  礼司は射すくめられたかのように直立不動である。全身は総毛立ち心臓は激しく鳴っている。なのにこの上もない甘えた声で、 「……来ちゃった。音丸(おとまる)さん」  などと言っている。もちろん礼司ではなく中園龍平の言葉である。  すっかりゆるんだ頬が熱いのは真っ赤に染まっているのだ。見なくともわかる。  二人が共に近づいて手を取り合わんばかりの距離になった時、 「あら、音丸さん。お待ちしてましたのよ」  先程の女性がそう呼びかけた。スマホを有田に返して男性に駈け寄って来る。 「この後、坂上珈琲店のお約束よろしいですわよね? あちらも期待してらっしゃいますのよ」  どうにも古風な話し方である。けれど和風な顔の男にはそれが似合っている気もする。 「ありがとう存じます。約束の時間に少し遅れるかも知れません。上野に寄る用事が出来てしまって……」 「ああ、来月の上席は上野ですものね。お気になさらず。ご用をお済ませになってから、いらしてくださいな」 「申し訳ございません」  などと話している二人の周りをうろうろしているのは礼司だけではない。  禿げや白髪の爺様や、赤い髪や紫の髪の婆様が「音丸さん」「音丸さん」と取り囲んでいるのだ。  この人物は〝音丸〟という古風な名前らしい。その男性の一挙手一投足を凝視している礼司の腕を引いたのは有田だった。 「そろそろ行こうぜ。親父に浅草土産を買って帰りたいんだ」  今は山梨県の実家に住んでいる有田である。既に日も暮れかけている。家に帰り着く頃には完全に夜になっているだろう。 「そうだね。舟和の芋羊羹でもお土産にするといいよ。今来た道を戻れば、何軒かお店があるから」  礼司は自分でも呆れるほどあっさりと有田に言っている。そして斜め掛けのバッグから財布を取り出して既に浅草演芸ホールの窓口に向おうとしている。寄席など初めてなのに全くためらっていない。 「僕、寄席を見て行くから。ツクツクは気をつけて帰ってね」 「おう。今日はつきあわせて悪かったな。マッツン」  有田も気にせずにかっと笑って踵を返すのだった。  商店街のガードの向こうに夕陽が沈もうとしていた。    初めて入った浅草演芸ホールとは、舞台があって客席にずらりと椅子が並んでいる(座敷なのでは? という礼司の予測は外れた)。なるほど確かにホールである。舞台の上にも紅白の提灯が並んでぶら下がっている。客席にはまだ数えるほどの客しかいなかった。  禿げに白髪に赤髪に紫髪のジジババ四人は最前列の中央に横一列に展開している。古風な話し方をする女性はどこかと探せば、上手(客席の右側)中ほどに一人で座っている。  礼司はジジババの後列にすこしずれて席を取った。  一番太鼓が鳴り、二番太鼓が鳴り、幕が開く。  舞台にはただ一枚の座布団が置いてあるばかりである。傍らの立札のような物に名前を書いた紙がぶらさがっている。演者が変われば紙を一枚ずつめくるから〝めくり〟と称する。  何故知っているのか不思議だが、礼司は既にそれらを知っているのだった。何ならこのホールも何度も来たような気さえする。 〝開口一番〟の前座が出て来て、面白いのかどうかもわからない話を語る。落語とは面白い噺ではなかったのか?  だがそんなことに頓着していないのは礼司の中にいる妖、中園龍平のようだった。全身全霊で高座を凝視している。おそらく数える程しかいない客の中で、これほどまでに真剣なのは礼司一人だろう。前列のジジババとて、もっとリラックスした様子である。  前座に続いてあの男が出て来る。途端に礼司は胸がきゅんとなる。たぶん瞳孔は開いているだろう。  あの安い黒服とは打って変った端正な着物姿である。銀鼠色の羽織に黒い長着で紫色の座布団に正座すると、手前に扇子を置いて深々とお辞儀をする。そうして顔を上げると、まっすぐに背筋が伸びた美しい形でゆるりと客席を見回すのだった。  礼司はただひたすらにその男を見つめていた。めくりには〝音丸〟と名前しか書いてない。パンフレットに〝柏家音丸(かしわやおとまる)〟と書いてあるのが正式名称なのだろう。  前列のジジババや周囲の客は音丸の落語を笑いながら聞いているが、礼司は内容など耳を素通りしているのだった。その心震わせる低音を全身に染み込ませんばかりに聞き入っている。    右を向いたり左を向いたりして役を演じる落語家を瞬きすら忘れて凝視しているのだった。  気がつくと頬が濡れている。泣いているのだった。気まずく腕で涙を拭いながらあたりを伺えば客は一斉に拍手をする。落語が終わったのだった。  座布団の上の音丸は再び頭を下げて丁寧にお辞儀をすると、高座の袖に入って行った。  途端に礼司は座席を立った。「え?」と声を出したのは自身の行動に対してである。とんでもない勢いでホールを飛び出している。  ちょっと待て!  今入場したばかりなのだ。入場料がもったいない!  まだ二人の落語家しか聞いていない。パンフレットには何人もの名前が並んでいるのに。  そう思う礼司に構わず足は既に出入り口の外に出ている。呼び込みをしていた係員がまるで躊躇もせずに入ったばかりの客を、 「ありがとうございました!」 と送り出すのだった。  内心おろおろしながら出入り口前をうろうろしていると、また安い黒装束に戻った音丸が出て来た。 「お疲れ様でした!」  係員の声に送られて寄席を離れて行く。  礼司の脚はあわてて追いかけている。 「待ってよ、音丸さん!」  やにわに腕を組んでしまうと、音丸はぎょっとして足を止めた。 「あの噺やってくれたんだね。僕の大好きな噺」  音丸はにわかに丁寧に礼司の腕を外すと静かに言うのだった。 「どちら様ですか?」 「え……僕だよ。音丸さんさっき呼んでくれたじゃないか。龍……」  言いかけた言葉を切り落とすかのように、 「申し訳ございません。人違いでした」  ぴしゃりと言うと音丸は頭を下げた。 「亡くなった友人に似てらしたので、つい間違えてしまいました」  そして礼司が(というか頭の中にいる龍平が)あっけにとられている間に踵を返すのだった。 「急ぎますので、失礼します」  言いながら早足になるや、しまいには小走りで人混みの中に消えて行った。 「え? ……待ってよ、音丸さん!」  礼司の喉から絞り出される声は哀切極まりない。まるで今生の別れを告げられたかのようである。 ……亡くなった友人?  音丸の言葉にぞっとしている礼司とは裏腹に、中園龍平は柏家音丸が消えた先をじっと見つめているのだった。

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