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第三章 1 胃痛とイメチェン
第三章
1 胃痛とイメチェン
礼司はまたベッドにもぐり込むとスマホで飽きもせず柏家音丸について検索するのだった。
そして先々の落語会を予約してしまう。それも三件も。安さにつられて後先考えずにポチッてしまったのだ。
唐突な比較ではあるが、落語のチケットは宝塚歌劇に比べると異常に安い。宝塚のSS席ならば一枚の価格で落語会三件のチケットを買ってランチ代も出るだろう。礼司の姉は宝塚ファンだから知っているのだ。伝統芸能の落語はこれでいいのかと少々心配になる。
「そんなことよりさ……」
気がつくとベッドの中で誰かが礼司の背中に張り付いている。鼻先にお香の香りが漂って来る。中園龍平なのだった。
今日は着衣なのか裸なのかわからない。けれど未だ胃腸不良の礼司に色っぽい元気などない。
知ってか知らずか龍平は背後から礼司の頭髪を撫で回している。
「君、髪が伸び放題じゃない。一体いつカットしたの?」
「カット?」
礼司は実家の仙台にある理容室に子供の頃から通っている。前に行ったのは確か年末に帰省した時である。
「年末って……じき四月だよ? 三か月間伸ばしっ放しなの⁉」
龍平は悲鳴に近い声を上げている。
礼司としては次はゴールデンウィークか夏休みに帰省した折に理容室に行くつもりだったのだ。それの何が悪いのか。髪は毎日洗ってるしきちんと櫛も入れている。清潔ならば問題ないではないか。
礼司が思いを口にする暇も与えずに龍平は、
「信じられない」
背後から手を伸ばしてスマホを操っている。
「何だよ⁉ 人のスマホを勝手に使うなよ」
言いながら実はスマホを操作しているのは礼司の手なのだった。龍平の手が重なって、意思と異なる動きをしている。
そうしてまんまと六本木の有名カリスマ美容師のいる店に予約を入れたのだった。
「それと、東京お江戸歴史散歩の企画書を書くんじゃなかったの?」
「具合が良くなったらやるよ」
幽霊のくせに人間の怠惰を責めるな!
胃の痛みよりはるかに鬱陶しい妖なのだった。
一日中ベッドでごろごろして次の日から、ヒストリア・グルニエの新歓イベント〝東京お江戸歴史散歩〟の企画書を書く。
東京駅に集合して、辰野金吾設計の赤レンガ駅舎を見学して行幸通りを皇居に向かい外苑などを散策の後、新丸ビルでお茶をして地下鉄で浅草に向かう。そして浅草寺でお参りの後、浅草演芸ホールで落語を楽しみ、麦とろで早目の夕食……といった行程である。
東京をまるで知らない礼司がコースを作り、見どころを書き並べて行く。しかもパワーポイントを楽々と使いこなしているのだ。高校の授業で習いはしたが、エクセルやパワポの使い方にはイマイチ自信が持てないというのに。
椅子に座った背中に密着している龍平の手柄である。時々礼司の頭髪を撫でたり耳元に息を吹きかけたりするのが困りものだが、便利な下請けを雇った気分でもあった。
書き終われば、背後から回された手が股間に伸びて、緊張の解放というか盛大に扱いてくれるのだ。これもまた便利な下半身下請けを雇ったと思えば、
「あン、いい……そこ、あっ、もっと……も、んんッ、で、出る!」
などと声を挙げてしまうのだった。
ちうりっぷ商店街のコインランドリーにシーツや布団カバーを忘れたきりだった。
思い出したのは企画書のプリントアウトやコピーをするためにコンビニに行った帰りである。紙の束と夕食のおにぎりを入れたレジ袋を下げたまま、コインランドリーに入ると外国人の清掃員が床にモップをかけているところだった。
見回すと棚に〝忘れ物〟の札の付いた籠がある。こんもりと盛られているのは、見覚えがある自分のシーツ類だった。
「あの、これ忘れたんですけど……持ってっていいですか?」
清掃員に言って籠から取り出すと、
「あなた達のシーツ? 持って帰るどうぞ。二週間持ち主いない。だから今日捨てる決まり。あなた達、今日運良かった」
と言われる。
礼司は片手にレジ袋、片手に布類を抱えて月光荘に戻ったのだ。302号室の鍵を開けながら、ドア下の凹みを見る。ドアを開けると猫の額の玄関である。靴箱の上には門番よろしく高価な酒の化粧箱が二本立っている。
玄関先で中園龍平とまぐわった。玄関先はどちらのものかわからない白濁が飛び散っていた。あの頃はまだ部屋に何もなく酒の箱もなかった。まだ二週間しかたっていないなど信じられない。既にもう何年もたったかのように礼司は妖の存在に慣れてしまっている。
これでいいのかと思いながら靴を脱げば、
「お帰り、礼司くん。何を持って来たの?」
ベッドに寝そべった龍平が色っぽい目で礼司を見やる。そんな目で見られればまた頬が上気して、妖にすり寄る礼司である。持ち帰ったシーツをくしゃくしゃのままベッドに敷いて、これでどんなに濡れても大丈夫とばかりにまた裸で抱き合う人間と幽霊なのだった。
四月直前、ヒストリア・グルニエの集会は例によって礼司(龍平)の独擅場だった。
プリントして来た企画書の冊子を配って、東京お江戸歴史散歩の行程についてまた滔々と述べるのだった。反対意見があろうはずもない。新キャンパス周辺を散策する例年の企画にみんな飽き飽きしていたのだから。
だがそれよりもまず全員の度肝を抜いたのは、礼司のイメージチェンジぶりだった。
「ツクツクが坊主頭で、マッツンは天然パーマかよ?」
部長が呆れていたが、
「いいや、マッツンのは天然じゃないだろう」
と有田のツッコミが入る。
礼司は龍平が予約した六本木の美容室でパーマをかけて来たのだ。カリスマ美容師との対応は全て龍平がやってくれた。
「僕、パーマをかけたいんだ。髪色は黒のままで変えないでね」
いつの間にかスマホに入れた中園龍平つまり妖の写真を見せて、
「こんな風に、くるくるパーマにしてね」
などと言っている。
偶然にも年末にカットしたきりの礼司の髪はパーマに適した長さに伸びていたらしい。もっと短ければパンチパーマになっていたところである。ロッドとかいう器具を髪の毛に巻いた滑稽きわまりない姿が鏡に映るのを見て長時間を過ごす。ちょっとした拷問である。
気づけば自分の輪郭がぶれて龍平の顔に見えたりする。
そう言えば、店に入った時、受付の美容師が「いらっしゃいませ」と礼司を見てからその横を見た。まるで二人の人間が並んでいるかのように。
「今日のご予約は松橋礼司様ですね。そちらのお連れ様は……」
とまで言いかけて、ふいに目を瞬いて「こちらにどうぞ」と礼司だけに言って案内をしたのだ。
その時にわかに思い出したのは、コインランドリーの外国人清掃員のたどたどしい日本語である。「あなた達」と言ったのは日本語を知らないからだと思っていたが、違うのかも知れない。
今更ぞっとしながら髪のスタイリングをされる。
店を出る時も少しばかりぞっとした。実家の近所の理容店とは桁違いの代金を請求されたのだ。驚いたことに美容師の指名料まで入っていた。この金銭感覚の違いは、宝塚と落語のチケット代金の違いにも似ていた。
そしてパーマ頭が完成したら、今度は新しい服の買い物である。
六本木から表参道しまいには銀座まで歩き回ってガサガサと何個もの紙袋を下げて帰還する騒ぎだった。
今日、部室に入った時に裕奈は眩しいような目つきで礼司を見たものである。
「礼司くん、めっちゃイメチェンしたね。アイビールック?」
「う、うん」
頷きはしたが礼司は〝アイビールック〟が何だかわからない。ただ龍平が選んだものを着ているだけである。ボタンダウンのシャツにチノパンを履き、Vネックのセーターを着た上にブレザーを重ねている。襟元にはいつぞや間違えて注文した(実は龍平が注文したらしい)赤いネクタイを絞めたのがポイントである。
何着か着替えまで買ったから、それを何通りにも組み合わせて着るらしい。外見のメンテナンスは全て龍平に任せる礼司だった。ちなみに靴も履き潰したスニーカーなどではない。革のローファーを買っていた。
三月の余一会、池袋演芸場では特別公演〝注目の二つ目大集合!〟に柏家音丸が出演した。実はイメチェン直後の外出はここだったのだ。音丸にアイビールックを披露すべく池袋に出かけたのである。
あの日から礼司は浅草演芸ホールの中席に日参しては音丸の落語を聞いていた。呆れたことにジジババ四人組と古風な話し方の女性も連日寄席に現れるのだった。
音丸はと言えば客席を見回すことはあっても決して礼司に目を向けることはなかった。礼司もあの日のように音丸が高座を下りるや席を立って外まで追いかけるようなことはしなかった。
ともあれ、落語に慣れるのが先決というのが礼司の思惑で、龍平は多分イメチェンに望みを賭けていたのだろう。
初めての場所でまた散々迷子になるかと思いきや、池袋北口から一分足らずで地下二階の寄席に辿り着いた。身体も方向感覚も中園龍平が操っている。
そこは驚くほどに小さいホールだった。最前列にはあのジジババ四人組が横に展開し、上手中ほどにはあの古風な話し方をする女性が座っている。礼司もまたジジババの後列にややずれて座ったのだった。特別興行のせいか狭いホールは立ち見が出るほど盛況だった。
この日は音丸がトリの出演である。開口一番の前座は音丸の妹弟子たっぱだった。今回は全員二つ目の落語家である。仲入り(休憩)後はいよいよ会場は盛り上がって来る。最後に音丸が出て来た時には「待ってました!」「たっぷり!」と掛け声がかかる。
狭いだけあって高座との距離もやたらに近い。音丸が裾を整えて座布団に腰を下ろした途端に礼司の席まで着物に焚き込んだ香の香りが届くのだった。それだけで頭の芯がくらくらする。胸が高鳴り瞳孔は開き、熱病に浮かされたような顔で音丸を凝視している。
けれどゆったりと客席を見回す音丸の目が礼司に留まることはなかった。最前列のジジババに対してはかすかな目配りをしたはずなのに。
地団駄を踏みたいほどの口惜しさと共に落語を聞く。しかし次第に噺に引き込まれて、終わる頃には涙で目が潤んでいるのだった。
後で調べたところ演目は〝文七元結〟という噺だった。
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