10 / 14
第三章 2 学生の本分
2 学生の本分
四月になり本キャンパスで三年生としての講義が始まった。一、二年の教養課程では毎日のように講義があったが、三、四年の専門課程になれば講義数は減る代わりにレポートが多くなる。将来に備えていくらでも勉強が出来る時期である。その気があればこの時点で司法試験にも挑戦できる。
なのに礼司は勉強は最低限で凌いでいた。自身のメンテナンスでやたらに金を使ったからアルバイトもしなければならない。学生課で紹介された予備校の下働きのバイトを始める。講師のために授業の下準備をするような仕事である。
いよいよ熱心なのは落語通いだった。柏家音丸のみならず、その師匠である柏家仁平や兄妹弟子まで追っかけるのだった。寄席や大ホールでは客席に埋没してしまうが、池袋のような小ぶりな小屋なら音丸に存在を誇示できるはずだった。それがまるでスルーされたのだ。
龍平はさぞ口惜しかったのだろう。礼司は否応なくあちこちの落語会に足を運ばされる。毎回違うファッションで客席に納まるのだ。妖に身を操られるのがもはや日常茶飯事になっていた。
せめて龍平に望むのは少しは懐具合も考えて欲しいということだった。六本木の美容室には小まめに出かけるわ(もちろんカリスマ指名である)、服ばかりでなくネクタイ、靴下、サコッシュなどの小物はもとより肌や髪のケア用品まで買って来るのだ。
狭いワンルームアパートのクロゼットは既に新たな服でいっぱいである。バスルームの棚にはこれまでの歯磨き歯ブラシの他に、スキンケア、ヘアケア用品がずらりと並んでいる。礼司の日常にはなかったファッションという新たな項目が加わったのだ。
大学の入学式が終われば、都下の新キャンパスでサークルの勧誘会が催される。そちらでも龍平は大活躍だった。
新キャンパスの広場で〝ヒストリア・グルニエ〟に与えられたのは、陽の当らない隅っこの場所だった。そこにテーブル一台を置いてチラシや写真を展示する。音楽や演劇サークルのように講堂で披露すべきものもないから、ただチラシを配って呼びかけるしかない。
もっとも昨年はその地味な勧誘をしていた礼司を見初めたのが関裕奈である。共に二年生になったばかりだったが、まだサークルに入っていなかった裕奈は礼司にチラシをもらって入部したのだ。
「一目でこの人だって思ったの。だから入部したんだ」
つきあい始めてからそう言われた。
「門の方まで配りに行こうぜ!」
と、やる気満々の有田と共に礼司や裕奈もチラシ持参で広場の入り口まで繰り出すのだった。
礼司はただ二人の後をついて行ったに過ぎない。なのに、いきなり大声で叫び始めるのだ。
「ヒストリア・グルニエ! ヒストリア・グルニエとは何ぞや? 歴史の屋根裏部屋である!」
またもや龍平がしゃしゃり出て来たのだ。礼司の意志は頭の隅に押しやられ、まるで小さな穴から自分の行動を覗き見しているかのようである。
「ヒストリア・グルニエとは、歴史で遊ぶサークルである。新入生諸君! このサークルで新キャンパスのあるこの街や、本キャンパスがある都会を、そして日本の、世界の、歴史を知ろうではないか! 歴史を知る者は全てを制する!」
「……そういうサークルだったの?」
小声で言っているのは部長その人である。
「じゃねえの?」
適当に答えている有田である。
「Let‘s have a great time together!」
などと締めの英語が妙にネイティブな発音なのも忌々しい。
礼司いや龍平は、その場の注目を集めるや快活な笑みを浮かべてチラシを配り始める。ターゲットは女子学生ばかりである。距離感がバグったかのように身を寄せて、
「春の新歓イベントでは都内を歩く予定なんだ。東京の地理を知りたいでしょう? It will be fun, for sure!」
などと吹き込んでいる。女の子の目を覗き込んで色目を使うなど、礼司には恥ずかしくてとても出来ない行動である。
夕方の終了時刻になる頃には、新入部員が二十名に上っていた。ちなみに昨年は二名である(そのうちの一名が裕奈で、もう一名は既に退部している)。
「すげえな! 今年はマッツンの活躍で新入部員が去年の十倍だぞ!」
結果発表をする部長に向かって、
「違うよ! 活躍したのは僕じゃない。みんなの力だよ。これは僕ら全員の勝利なんだよ!」
などという男前発言までするのだった。
だが男前は最後まで続かなかった。居酒屋の打ち上げでアルコールを吞まされたのだ。
いや正確に言えば、居酒屋の店員が誤って烏龍茶ではなく烏龍ハイを礼司に渡したのだ。
一同揃っての乾杯だったから、礼司はあわてて確かめもせず受け取ったグラスで乾杯していた。
そして一口飲んで咳き込んだ。口どころか鼻からも吹き出す勢いだった。
「こ、これ、アルコール、入ってない?」
むせながら言う礼司のグラスを奪って一口飲んだ有田が、
「烏龍ハイだぞ。おい、マッツン大丈夫か?」
と言う頃には既に礼司は激しくむせていた。
意識より先に肉体が侵入して来た毒物を吐き出そうと必死になっていた。礼司は裕奈が渡す水を喉に流し込もうするのだが吐き気ばかりが先に立つ。
その後の記憶は混乱している。誰かにトイレに連れて行かれて何も出ない胃袋から胃液を吐いている間に救急車が呼ばれ、病院に運ばれた。そうして救急病院の処置室で点滴をされて体内のアルコール分を排出させる騒ぎである。
「君にとって酒は猛毒だと覚えておきなさい。自殺したければ酒を呑めばいい」
消毒用アルコール臭が漂う病院のベッドに横になっていると、入学時に言われた医者の言葉が嫌でも蘇る。たった一口でこの有様なのだ。
人の身体を好き勝手に操った龍平に苦痛を与えてやったと留飲を下げようにも、実際に苦しんでいるのは礼司なのだった。
新キャンパスのあるド田舎は誰もが車で移動する。駅からもスクールバスが出ているのだ。
礼司はその日のうちに救急病院の処置室を追い出された。いや、入院するまでもない軽傷だったことを感謝すべきなのだが。礼司は裕奈が通学に使っているすみれ色のコンパクトカーで都内の月光荘まで送られた。パンケーキ女子会の友人と裕奈とが二時間かけて都内まで運転したのだ。
だが礼司は胃のむかつきやめまいが消えない身体で揺れる車に乗ったのだ。月光荘に着く頃には症状がぶり返したかのように足元もふらついていた。裕奈に支えられるようにして外階段を上った。
と、203号室の扉の前から人影が近づいて来る。よもや龍平が実体化したのではないかとぎょっとする。
だが廊下の明りに照らされた猫背の姿は常見可音だった。軽く頭を下げて「どうも」などと呟いたようだが聞き取れなかった。礼司や裕奈とすれ違うと外階段を降りて行った。
パンケーキ女子は車内に残っていた。男女二人が抱き合うようにして帰って来たのだ。可音にはこれから部屋でいちゃつくラブラブカップルと見られたことだろう。
久しぶりに月光荘203号室に入った裕奈は、礼司をベッドに寝かせると甲斐甲斐しく枕元に水や濡れタオルを用意した。そして改めて室内を見回すと、
「ちゃんと部屋もきれいになったんだね」
枕元に腰を落ち着ける。
「今日、泊ってこうかな? 礼司くんを一人にするの心配だもん」
すると、横になっている礼司は枕元に置かれた裕奈の手を握っているのだ。また男前の幽霊が勝手なことを始めている。
「駄目だよ。帰らないと親御さんが心配するだろう? 僕はもう大丈夫だから、ちゃんと帰りなさい」
何やらすっかり大人の男のような口調である。自分の口が動くのを、またしても頭の隅っこで眺めているような礼司である。
「僕……ホントはあの時からずっと迷ってたんだ。僕らはまだ学生で親がかりで暮らしているのに。情熱だけで突っ走って肉体関係をもつのは違うんじゃないかなって」
「違う……?」
「僕らは心ではちゃんと結ばれている。そうだろう?」
握った手の指と指とを絡ませて恋人握りにする。裕奈は嬉しそうに何度も頷いた。
「僕は大学を卒業して自分で稼げるようになってから、裕奈と結ばれたいんだよ。きちんとプロポーズもするよ」
「プロポーズ⁉」
枕元に座った裕奈は目を丸くしている。そして、
「一人前の男として堂々と裕奈のご両親にご挨拶したいんだよ。お嬢さんを僕にくださいって」
という龍平の言葉が終わる前に、礼司の身体に女体が抱き着いていた。
やめてくれ。妙に甘ったるい柔軟剤やリンスの香りにまみれた身体を押し付けないでくれ!
礼司は内心激しい拒否感を抱いているのだが、龍平は裕奈の柔らかい女体を抱き締めて優しい手つきで背中を撫でているのだ。
〝プロポーズ〟なんて噓くさい言葉をよくも吐けたものだ。
だが考えてもみればこれは絶好の猶予期間である。卒業して働くまでは裕奈と肉体関係をもたなくて済むのだ。その頃までに二人の気持ちが続いているかどうかも定かではない。プロポーズが立ち消えになることもあり得よう。
礼司には女性と交際した既成事実が残り、同性愛者の疑いを退けられるのだ。さすがに龍平の方が大人で一枚上手である。いきなり妖 を尊敬してしまう。
身を離した裕奈は目も頬も真っ赤に上気させている。
「約束してくれる?」
と右手の小指を差し出すのに応えて、礼司も厳粛な顔で指切りげんまんをする。
裕奈のとろりとした表情は何もしていないのに、まるで性行為をしたかのようである。ノンケの男はこういう姿に欲情するのだな……などと他人事のように思う礼司なのだった。
ともだちにシェアしよう!

