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第四章 1 来し方行く末

第四章 1 来し方行く末 〝初音落語会(はつねらくごかい)〟と記されたノートを捲って見れば、ブルーブラックのインクで書かれた妙に角張った文字が並んでいる。  第三十回 初音落語会  金明竹 木っぱ  鹿政談 音丸  太神楽 寿太郎・桜子  お仲入り  締め込み 弦蔵  百年目 仁平 〝初音落語会〟は毎年春にこの本社ビルの最上階にある大ホールで開催されている。得意先や株主などを招いて開くクローズドな会である。  それは礼司も落語情報を漁るうちに耳にしていた。初音製薬の株主になれば株主優待として初音落語会の無料チケットがもらえるのだという。  三十年以上の歴史があるこの会は先代の柏家仁平(かしわやにへい)をご意見番として始まった。爾来(じらい)、仁平一門の落語家を中心に顔付けされることが多いという。 「これが初音落語会のネタ帳ですか」  礼司は言いながら先のページまで捲って見たが、どうも違うような気がする。木村茜も笑って首を横に振っている。 「いいえ。それは中園くんの個人的な記録のようです。初音落語会には正式な和綴じのネタ帳があるんです。かなり歴史のある落語会ですから」  B5ノートには龍平自身が足を運んだらしい落語の記録や感想が事細かに書かれている。あまり達筆とは言えない文字である。よく見ればどの落語会にも柏家音丸が出演している。言ってみれば推し活ノートである。 「初音製薬の本社に配属された新人は、毎年この落語会の運営を手伝うのが初仕事なんです。お客様の誘導や落語家さんのご案内をするんです。中園くんがそのノートに仕事の諸注意をメモしてたのは覚えてるんですが、よく見たらページが破ってあるでしょう」  と示されれば確かに最初の数ページは破り取られているのだった。  木村茜はいよいよ楽しそうにくすくす笑いをしている。 「中園くんたら初音落語会をきっかけに落語にどっぷりハマったみたいですね。そのノートやファイルを見つけるまで全然気がつかなかったけど」  礼司はクリアホルダーからチラシを出しながらちらりと木村茜を見やった。龍平は落語はおろか柏家音丸を追っかけていることも社内には完全に秘密にしていたのか。  チラシの間には直筆の色紙も挟んである。 「水面(みなも)よりきらめく君の瞳かな……これって落語の言葉か何かですか?」 「さあ、私も知りません。でも俳句みたいですね。柏家音丸さんのサインですね。きっと初音落語会がきっかけで推しになったのかも知れませんね」 「……そうなんですか」  たぶん龍平は同性愛者であることを隠していたのだろう。それと同じような用心深さで落語や柏家音丸に関しても口を噤んでいたらしい。  おそらく二人はつきあっていたのだろうが、龍平は誰にも気づかせないまま一人で死んで行った。  礼司は何やらひやりとした感触を覚えるのだった。また身体が小刻みに震えるのが感じられる。と同時にひどく不穏な思いも浮かんだのだが、それが何なのかはわからなかった。  逆に木村茜は嬉しそうに思い出を語っている。 「皇居ランクラブも中園くんの思いつきから始まったんですよ。このビルを出るとすぐに皇居お堀端の周回路に出られるの。仕事が終わったらそこをランニングして国立劇場まで行ってみたいとか言い出して……」 「確かに国立劇場ならお堀端を走って行けないこともないですね。裏手には国立演芸場もあるし」  すぐに応じられたのは、東京お江戸歴史散歩の計画をしたお陰である。  龍平はヒストリア・グルニエの部室で弁舌をふるったように皇居ランクラブ設立にあたってもさぞや活躍したことだろう。音丸の落語を聞きに行きたいという本意を誰にも悟らせず。  キムアカはにわかに手を打って、 「ああ! 落語にハマっていたから……中園くんてば国立劇場より本当は国立演芸場の方に行きたかったのね」  などと驚いている。  木村茜が殊更に明るく笑って話すのは、思い出してしまった悲しみを紛らすためだったのかも知れない。  この日、礼司は初めて中園龍平の人生を知ることになる。  中園龍平の父親は物理学の研究者だという。龍平が幼い頃にアメリカはアリゾナ大学に父母と共に移住した。一人っ子だった。  その後龍平一人が大学受験のために日本に戻って来た。以来、龍平は一人暮らしだったと言う。  その後、父親が京都大学に戻ったので両親も帰国して京都に住まうようになった。つまり京都が龍平の実家なのだ。 「でも中園くんは一度も京都の実家で暮らさなかったと言ってましたね。日本にもどってからずっと一人暮らし」 「ずっと月光荘に?」 「ううん。学生時代は大学近くの寮、インターナショナルハウスに暮らしたそうです。英語も使えるから気楽だったようですね」 「……英語のが楽なのかな?」  呟いてからあわてて口を噤む。  そんなことを知らないのは変だろう。当初の設定では礼司と龍平は幼い頃から兄弟のように育ったはずなのだから。けれど木村茜は気づいていないようだった。 「お葬式も京都で、お墓も京都のお寺にあるんだけど。私は部長や課長とお参りに行っただけです」 「僕も近いうちに京都にお墓参りに行くつもりです」  神妙に言いながら内心礼司は首をかしげていた。幽霊が自分で自分の墓参りをするのか?  一階の受付で赤いストラップの入館証を返却する。ビルの外まで見送りに出てくれた木村茜は、 「新発売の健康ドリンクも入れておきました。よかったら飲んでみてください」  と礼司が下げた手提げ袋を示すのだった。  よくよく見れば紙袋の底にある小さなビニール袋の中に赤色と金色の小さなドリンク剤が並んで入っているのだった。 「赤いのが滋養強壮、金色のがお酒の前に呑むドリンク剤です。試してください」 「ありがとうございます」  金色のドリンク剤は自分には不要だと思いながら丁寧に頭を下げた。そして歩きかけて、ふと振り向くとキムアカの肩に手をかけた。 「あの時、来てくれてありがとう」  耳元で言ったのは龍平である。礼司はそれを他人事(ひとごと)のように聞いていた。 「もしキムアカが来てくれなければ僕はずっとあの部屋で一人だった。腐乱死体になっていたかも知れない」  女主任はぽかんと口を開けている。その肩をそっと抱いて、 「きちんと弔ってもらえたのはキムアカのお陰だよ。感謝してる。僕、それが言いたかったんだ」  囁くと龍平は踵を返した。  改めて歩き出した礼司は、背後の木村茜がどんな表情で見送っているのか知る由もなかった。ただ、ようやく理解した気がした。  中園龍平が(あやかし)としてこの世に姿を現したのは、こうして生前に世話になった人々に感謝を伝えるためではないのか?  憑りつかれた自分の使命は龍平が思い残したことを果たすことではないか?  さすれば龍平も成仏してくれるのではないか?  早春に妖に憑りつかれて以来ようやく希望が見えた気がした。  この足で音丸の勉強会に出向くのもその役目の一端のようで、いつも以上に嬉しく足は軽かった。  もちろん音丸の落語を聞く楽しさもあるのだが。例の三件まとめてポチッた落語会の最後の一件である。

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