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第四章 2 坂上珈琲落語会
2 坂上珈琲落語会
地下鉄で巨大なオフィス街を離れると初めての駅で降りる。地上に出て見れば大手町駅とは打って変って庶民的な街である。
Googleマップを頼りに急な坂道を歩いて上る。少しばかり息が切れる頃に落語会場の喫茶店が現われた。昭和の純喫茶のような木の看板には〝坂上焙煎珈琲店〟の文字がある。
扉を押し開けるとカランコロンとベルの音がして、目に入るのは大きなコーヒー焙煎器だった。その奥にカウンター席とテーブル席がある喫茶店のようだった。
けれど今日は焙煎器の横に一脚だけテーブルを出して着流しの前座が受付をしている。ここが〝坂上珈琲落語会〟の会場だった。
「いらっしゃいませ。松橋礼司さんですね? いつもありがとうございます」
礼司が名乗る前に広げたノートの名前をチェックするのは音丸の妹弟子、柏家たっぱである。音丸の落語会によく手伝いに来るから常連の顔と名前は覚えているのだ。
その場で現金支払いを済ませて店の奥に進む。ネット予約チケットなしの極小落語会は全て自由席である。定員は三十名ほどだろう。
通常ならテーブル席がある空間に椅子だけが並べられ、テーブルは壁に沿って積み上げられている。そして椅子はカウンターに紫色の座布団を置いた高座を向いて並んでいる。
椅子席のかぶりつきには例によって赤髪、紫髪の婆様と白髪と禿げの爺様とが横に展開している。当初礼司はこの四人が夫婦二組だと思っていたのだが、今ではそれぞれ他人だと知っている。ただの音丸ファンがソロ活動をしているうちに同じ追っかけ仲間になったらしい。
そしてカウンターに向かって右側、劇場なら上手と呼ぶべき位置の中程に、古風な言葉遣いをする若い女性が座っている。こちらは実はファンサイト〝音丸通信〟の主催者Lilly である。ジジババは「百合絵 さん」と呼んでいるが、本名は菅谷百合絵 である。普通に会社勤めのOLらしい。昼間の寄席に通えるほど暇な会社なのかといらぬ心配をする礼司である。
その菅谷百合絵は礼司に気がつくや、
「ごきげんよう、松橋さん」
立ち上がって近づいて来た。
百合絵も既に礼司の名前を知っている。特に名乗ったわけでもないが、時々たっぱと共に小さな落語会の受付を手伝っているからやはり常連客は覚えているらしい。
ちなみに礼司が選んだ席は毎度ジジババ四人組の後ろの列で中央からやや下手寄りにずれた位置である。
「失礼ですけど、初音落語会はご存知ですか?」
言われて礼司は膝の上に置いた手提げ袋に視線を落としてしまう。木村茜にもらった初音製薬のロゴ入りである。百合絵もそれに目を留めて、
「まあ、もうお持ちでらっしゃる?」
「お持ち……?」
「あら、ごめんあそばせ。初音落語会のチケットをお持ちでなければお譲りしようと思ったんですけど」
「え? だってあれは株主だけが参加できる……?」
「ええ。私も少し株をやってますのよ。株主優待でもらったんですけど、今回ばかりは仕事で行けなくなってしまって。よろしかったら使っていただけませんこと?」
封筒入りのチケットを差し出され礼司はすかさず手を出してしまった。
「ありがとうございます!」
言葉は後からついて来た。自分の手には入らないと思っていたチケットだから胸も弾む。
「でも……本当にいいんですか?」
思わず財布を出す礼司を百合絵は笑って制する。
「よろしいんですのよ。もともと無料のチケットですもの。空席を作らなくてよかったですわ。落語家さんは案外空席を気にしますものね」
そんなことを話しているうちに、店主らしい頭にバンダナを巻いた中年男が扉の上についているベルにタオルを巻きつけている。音が鳴らないようにしているのだ。
店内のスピーカーからは〝前座の上がり〟が鳴り響き、たっぱが高座に上がった。正確に言えば踏み台からカウンターに上がって座布団に座ったのだ。
そして前座噺が終わると音丸の出囃子〝勧進帳〟が鳴り響く。
楽屋は店のスタッフルームだから、そこから出て来て高座に上がる音丸の動線に典雅な香気が流れるかのようだった。カウンターの高座は椅子席から仰ぎ見る形になる。端整な音丸の姿を礼司は胸の中にある龍平と共にうっとりと見上げるのだった。
短い噺を二席、仲入りを入れて長い噺を一席。そしてお開きになると、音丸は出口で客の見送りをするのだった。
外は既に日が暮れようとしている。坂上焙煎珈琲店の前には音丸を中心にファンの輪が出来ている。
赤髪と紫髪の婆様方は音丸と握手を交わしている。何とはなしに礼司もその握手の列に並んでいたが、ちょうど自分の番になったところで若い女が割り込んで来た。
「写真一緒にいいですか?」と、せがまれて背の高い音丸はすかさずスマホ受けを取った。女の背後に立って自撮りするファンサービスである。礼司は毒気を抜かれてすごすご退散するのだった。
行きと違う道に向かったのは、仲入りの時にジジババが話しているのを聞いたからである。
「あなた心臓が弱いのに男坂を歩いて来たの? あんな急な坂より女坂のが楽よ」
「男なのに女坂なんて歩けるか」
「つまらない意地を張ってぽっくり逝っても知らないわよ」
年寄りの会話はなかなか尖っているのだった。
検索してみれば確かに駅に向かうには別の道もある。今回も礼司は迷うことなく道標石に〝女坂〟と刻まれたゆるやかな坂を下っているのだった。
夕焼け空を背景に地味な民家や小さな会社が並ぶ女坂である。坂下まで来ると脇に抜ける細い道があった。それを目にした途端にわかに足が止まってしまう。
頭上から激しい電流でも流されたかのように全身が痺れてしまったのだ。初音製薬のエレベーターホールで感じたような懐かしい感覚が、何十倍にもなって襲って来た。
恐る恐る歩を進めて細道の奥を覗き込めば、遠慮がちに光っているのはラブホテルの電飾看板だった。
「ああ……」
納得の吐息が漏れた途端に背後から勢いよく足音が響いて来た。
マラソンランナーのような一定の足音は乱れることなく礼司の横を通り過ぎた。一瞬鼻先をかすめた香りに、
「あっ!」
声を上げたのは礼司である。
「えっ?」
振り向いたランナーは音丸だった。
あろうことか音丸は先程の着物のままで尻端折りをして走っているのだった。裾の下に覗く脚には、それこそランナーのような黒いスパッツにスニーカーを履いている。
脚がもつれて転びそうになる音丸の腕をつかんで支えたのは礼司というより龍平だったろう。そのまま強引に和服の男を自分の胸に引き寄せようとした。けれど相手は礼司の肩に手をついて体勢を立て直した。
「あにさん!」
背後から女の声がする。振り向けばこちらはシャツにデニム姿のたっぱが走り降りて来る。その身に着けている大きなザックやバッグが揺れている。
「大丈夫ですか? 十七時十五分の上がりですよ!」
「わかってる!」
その声を聞いて龍平は(礼司ではない)音丸の腕を放した。
音丸はこの先にある寄席の夜席に出演するために走って来たのだ。たぶんファンサービスで時間が押して着替える間もなく飛び出したのだろう。妹弟子たっぱが背負っているのは兄弟子の荷物である。
「本日はありがとうございました!」
音丸は礼司に向かって頭を下げるとまた走り出した。その後を追って走るたっぱである。同じく、
「松橋さん、御来場ありがとうございました!」
と叫びながら。背中で揺れるザックの留め具がカチャカチャ鳴っていた。
何なんだあの兄妹弟子 は?
思わず吹き出してしまう。
小道の先にはまだラブホテルの看板が光っている。
笑って衝撃は緩んだものの、礼司の掌にはまだ痺れるような感覚が残っている。突然襲った懐かしさと音丸の腕に触れた衝撃とが身体から消えない。
ああ、そうか……。
あのラブホはたぶん二人の思い出の場所なのだ。
何とはなしに理解する。
龍平と音丸は間違いなくそういう関係だったのだ。
やはり自分は龍平という妖 の未練に引き回されて東京の街を歩いているのだ。そう再認識した一日だった。
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