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第四章 3 個展にて

3 個展にて    いや一日はまだ終わらなかった。  部屋に帰ってドアを開ける。玄関の靴箱の上には大家からもらった吟醸酒と芋焼酎の一升瓶の箱が門番のように立ち並んでいる。 アルコールの匂いがするわけではないが下戸の礼司にはどうにも目障りである。裕奈や有田にでもやってしまえ。 などと思いながら酒の箱の真ん中に初音製薬の手提げ袋を置いて靴を脱ぐ。  室内に入って息苦しいネクタイを解いてリクルートスーツも脱ぎ捨てる(龍平のブレザーだったなら、ブラシで埃を払えのハンガーに掛けろのと散々文句を言われたはずである)。そしてベッドにダイブしてようやっと思い出したのだった。  ツクツクが送ってくれた写真を見なければ。スマホのLINEアプリを開く。  有田から届いているのは三月に訪れた浅草演芸ホール前での写真だった。有田の自撮りもあるが、偶然居合わせた菅野百合絵が撮ってくれたツーショットもある。  幟はためく寄席の前で肩を組んでいる礼司と有田。その間にぼんやりと映っているのは、漆黒の天然パーマに白い肌赤い唇の中園龍平だった。生気のない(そりゃないだろう)無表情である。後ろの幟に染め抜いた文字が読み取れる、透き通った美青年だった。 〈こいつ誰?〉  というのが有田のコメントだった。 〈誰だろう?〉  と返信をする。  それを補強するかのように、 「何だろうな?」  地下鉄の座席に座った礼司は有田に向かって首をかしげて見せるのだった。  初音製薬を訪ねた週の日曜日である。昼下がり有田と待ち合わせて銀座の個展に出かけたのだった。向かいの車窓には並んで座っている有田と礼司の姿が映っている。二人の間に他の誰かの姿が映ることはない。  実は写真の男は幽霊なんだと本音が喉元まで出かかったところ、 「同じ奴が個展の案内状にも出てた」  と有田は意外な指摘をする。  礼司が斜め掛けバッグの中に入れっぱなしになっている絵葉書を出すと、 「ほら、ここに人が浮かんでるだろ。あの写真と同一人物に見えるんだよな」  横から有田が指を差す。  単なる暗い緑色の絵という認識しかなかった礼司だが、よく見れば森のような緑の奥に四角い箱のような家が見えるのだった。  これは常見邸のあの廊下から眺めた月光荘ではないか。今更気がつけばアパート前の中空に浮かんでいるのは小さいけれど漆黒の天然パーマに色白の肌の美青年である。間違えようもない中園龍平の姿なのだった。  まだ五月なのに地下鉄車内には既に冷房が入っている。礼司が鳥肌を立てたのは、きっとそのせいである。 「何だろうな?」  などと言いバッグから初音製薬でもらったドリンク剤二本セットを取り出す。金ラベルの瓶をツクツクに渡す。 「これ酒を呑む前に飲むといいらしいよ。初音製薬の先輩にもらって来た」 「もしかしてマッツンもう会社訪問してるのか」 「まあね」  と自分は赤ラベルの瓶を手に取る。ペキッと音をたてて蓋を開けると、甘ったるいケミカル臭が鼻先に漂う。それを飲みながら、 「ツクツクは卒業したら実家のお寺を継ぐの?」  などと意図的に話題をずらしているのだった。  有田は例によって掌でじょりじょりと五分刈り頭を撫でながら「うーん」と呻っている。金ラベルのドリンク剤はデニムのポケットに突っ込んでいる。 「いずれはな。もともと地元の仏教高校から系列の大学に進むはずだったし。ただ一度は実家を離れたい気持ちもあって。ダメ元でこっちを受験したら受かっちまってさ」 「そりゃ受かれば入るよな」  と頷いてしまう。失礼ながら地方の仏教大学よりこちらの大学の方が偏差値ははるかに高いはずである。 「休学する時も迷ったんだ。いっそ地元の仏教大学に転学しようかって……でも、やっぱこっちを卒業した方が何かと有利じゃん。仮に就職するにしたってさ」 「就職って……お寺は?」 「うーん」とツクツクはしつこいぐらいに唸っては五分刈り頭を撫でている。まだ自分でも結論が出ていない問題なのだろう。  時代を超越したような古い地下鉄である。画廊の最寄駅にはまだホームドアも設置されていなかった。すり減った階段を上り画廊に向かう。  常見可音の個展は銀座の路地裏にある小さな画廊で開かれていた。絵葉書の簡単な地図を見ながら先導したのは有田である。礼司はその後について歩いていたが入り口のガラス扉を見た途端「あっ!」と声を上げて指差してしまった。  扉に貼られている個展のポスターは絵葉書の絵を拡大したものだった。昼か夜かもわからぬ深い緑の日本庭園の奥にある月光荘。その前に浮かんでいる人間も拡大されれば容貌もはっきりと見て取れる。中園龍平に他ならないのだった。 「それ、幽霊だよ」  常見可音はいとも簡単に答えるのだった。   画廊に入るなり、 「これは何ですか?」  ツクツクが絵葉書を差し出して単刀直入に訊いた答えがこれである。 〝誰〟ではなく〝何〟と訊いたと礼司が気づいたのはもっと後になってからである。  狭い画廊の四方の壁には何枚もの絵が飾られている。ガッシュや水彩画それにコラージュもあると礼司に言って聞かせる有田は画材にも詳しいようだった。礼司にわかるのはどの絵も暗い色彩を使っていることぐらいである。そのせいで白い壁に白木の床の室内が薄暗く見えるのだった。  猫背の可音は小さな流し台でいよいよ背中を丸めてコーヒーを淹れている。そして高級そうなクッキー(常見邸の台所や床の間に積んであった贈答品のひとつだろう)を添えて二人に出しながら、 「月光荘に出る幽霊。203号室に住んでいた中園龍平さんだよ」  あっさり言うのだった。 「えっ! 名前まで知ってるの?」  驚く礼司を可音は丸メガネの向こうから何がなし白けた目で見ている。 「知ってるよ。大家だし。おーばさんは韓流スターみたいなイケメンだって言ってた」 「確かにこれはイケメンだな」  ツクツクは深く頷いて絵葉書を見ている。来た時からずっと手に持ったままなのだ。 「待てよ。するとマッツンはこの幽霊に憑りつかれているのか?」 「…………」  今こそ打ち明けて助けを求めるべきだ。礼司の心はそう叫んでいるのに何も言えないのだった。  代わって声を出したのは可音だった。 「ゲイの人間を探してるって言ってたよ」 「はい?」  礼司と有田とが同時に可音を凝視する。 「いや、一時あの部屋に住んでたから。見えたんだよ。声も聞こえたし」  答える可音が実は月光荘の管理人で事故物件に住んでいたと礼司は有田に話して聞かせる。内心〝ゲイ〟という言葉が出たことに微妙に怯えている。  妙に静まり返った画廊の中にショリショリと響くのは例によって有田が五分刈り頭を手でこする音だった。 「松橋さんは大丈夫だと思うよ。彼女いるみたいだし」  なだめるような口調の可音である。  烏龍ハイ一口で酔い潰れて裕奈に送られて来た時、可音にその姿を見られていた。お陰でゲイばれしないで済むとは思わなかった。内心ほっとして椅子に深く座り直す。 「別にこっちは憑りつかれてもいいのに。バイセクシャルもトランスジェンダーもダメ。完全なるゲイがいいんだって」  ツッコミどころ満載の可音の発言である。 「憑りつかれてもいいって……?」  と礼司が言い、 「バイセクシャルなんですか?」  と無遠慮に(率直にとも言う)訊くのは有田だった。 「違うよ。好きなのは女だけ」  可音は珍しくまっすぐ有田の目を見ている。そして礼司に視線を移した。 「でも幽霊が見えたり声が聞こえたりするのはストレスだよね。絵でも描ければストレス解消になるのに」 「この絵はストレス解消なんですか?」  また率直に尋ねる有田である。すかさず可音はにやりと笑って、 「絵なんてストレス解消以外の何ものでもない」  などと言う。 「せっかく受かった大学に行けなくなって。ずっと一人で絵を描いていた。何とか外に出られるようになったのは二十の頃だよ」 「デザイン学校に行ったとか言ってなかった?」  礼司が思い出して言う。可音は自嘲気味に笑っている。 「自己流じゃなく絵を描く技術を知りたくて。それで外に出てデザイン学校に……その頃だよ。うちの廊下から月光荘を見たら、あれが見えた。で、おーばさんに言われてあの部屋に引っ越したら声まで聞こえたわけ」 「よかったですね」  唐突に有田が言う。  可音も礼司も一様に口をつぐんだ。その真意がわからなかったからである。 「ずっと一人で絵を描いて来られた。幽霊も気にならないぐらい集中されてたんでしょう。お陰で立派に個展を開けるようになった。よかったじゃないですか」 「…………」  妙に黙り込む可音である。  ふいに有田は礼司の顔を見て言った。 「マッツン、あの鈴は大事にしてるか?」  一拍おいてから礼司は「ああ」と頷いた。たぶん浅草寺で裕奈にもらった鈴のことだろう。あまりにも唐突に思えたのは、単に忘れていたからに過ぎない。  膝の上の斜め掛けバッグを探ってみれば、底にハンカチでぐるぐる巻きにした鈴の根付がまだ入っていた。浅草寺から寄席に行って音が出ないように包み込んで入れたきりだった。ハンカチを解けば狭い画廊空間にちりんと澄んだ鈴の音が響いた。 「裕奈の愛とその鈴があれば、マッツンは幽霊に憑依されないだろう」 「そう……なのかな?」と口の中で呟くのは「いや、もう憑依されてる」とは言えないからである。 「だから、鰯の頭も信心から。信じるも信じないもあなた次第って言ったろう」  得意気に言う有田である。そしてまっすぐ可音を見て、 「常見さんにも今度何か持って来ますよ。お守りになる物」  にっこり笑うその姿は、礼司の目にも頼り甲斐がありそうに見える。 「ツクツクの親父さんお坊さんなんだろう。ひょっとして除霊とか出来ないの?」 「今度訊いてみるわ。でも俺も〝般若心経〟ぐらい唱えられるぜ。仏教高校出てんだから」 「じゃあ、一度月光荘でそのお経読んでもらおうかな?」 「おう。任せとけ」  有田津久志が口を開けば何故だかその場が明るくなる。不気味な幽霊に捕われていた三人の空気は妙に明るいものに変わっていた。 「松橋さん、日光荘に空き部屋があるよ。何なら引っ越す?」  可音まで前向きな提案をして来る。とはいえ貸借人としてはそう簡単に頷けない。 「でも月光荘の賃貸契約を解除して、改めて日光荘で賃貸契約をしなきゃ。中途解約だから違約金が発生する場合もある」  いきなり民法第601条などと口走りそうな法学部学生である。 「早い話が金の無駄、と」  合の手を入れるツクツクも法学部なのだった。あいにく宗教学部のない大学である。 「さ来年、約更新まで頑張って住み続ける?」  可音に軽く言われて礼司は言葉を飲み込んでしまう。  一体いつまであの(あやかし)にこの身を操られ続けるのだろう?

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