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第五章 3 初音落語会

3 初音落語会  毎年六月六日が初音製薬で催される〝初音落語会(はつねらくごかい)〟の日だった。  無料招待券を手に入れた礼司いや龍平は朝から張り切るまいことか。シャワーを浴びて鏡の前で念入りに身だしなみを整える。実家の姉だってこんなに長時間洗面所を占拠してグルーミングすることはない。  そもそも礼司と龍平とでは〝身だしなみを整える〟の概念が違うのだ。何しろ数か月に一度、帰省した時に散髪するだけの礼司が龍平に操られて月に何度も美容室に通うようになっているのだ。  涼しいのか暑いのかはっきりしない季節だから着る物にも気を使う。念入りに選んだファッションで午前中に予約したカリスマ美容師の元を訪れて、巻き毛も麗しくセットしてから大手町の初音製薬に向かうのだった。何故か手には大切に手提げ袋を下げていた。  平日の午後である。普段ならビジネスパーソンしか歩いていないようなオフィス街をやたらに年齢層が高い男女がぞろぞろ歩いている。礼司がひどく年若い男の子に見えるぐらいである。  ガラス張りの高層ビルに一歩を踏み入れれば、三階分吹き抜けのエントランスに相変わらず圧倒される。玄関扉を入るなり案内板が立っており、三階に直通のエスカレーターに誘導される。首から青いストラップの社員証と〝STAFF〟の名札を下げた若い男女が要所要所に立っては「落語会場はこちらです」と声をかけている。  なるほど、これがキムアカが言っていた〝新入社員の初仕事〟なのか。  一階エントランスから二階そして三階までエスカレーターを乗り継ぐ。三階に来るとホール直通のエレベーターが数台あるのだった。これまた新入社員がエレベーター係として大勢の客を箱に導き二十一階のホールへと運んで行く。  そして厚い絨毯の敷かれたホールには受付があった。賓客の受付と一般客のもぎりとが二つのデスクに分かれている。それぞれに青いストラップの名札を下げた若い男女が待機している。背後に立っているのは先輩社員らしい。  もぎりに向かいかけた礼司は、賓客デスクの背後にいる木村茜主任を見つけるや、 「キムアカ!」  と明るく声をかけていた。もちろん龍平の仕業である。  このビルに入ってからというもの、礼司の意識は龍平によってぎゅうぎゅうと頭の片隅に押しやられている。小さな穴から外を覗くような塩梅だった。肉体を司っているのは(あやかし)の龍平で礼司は単なる見物客のようだった。 「柏家音丸さんの楽屋に行けないかな?」  と差し出しているのは一升瓶の酒の箱を入れた手提げ袋である。  礼司は家を出る時、何の疑問もなく玄関の棚にあった吟醸酒〝獺祭〟を手提げ袋に入れて持って来たのだ。その真意を今になって知る。 「落語家さんへのお差し入れは、こちらでお預かりします」  青いストラップの社員証を下げた若い女性に言われるが、礼司は手提げ袋を抱いて渡さない。その後ろにいる木村茜に、 「僕、直接渡したいんだよ。龍平がずっと贔屓にしていた落語家さんでしょう? 僕も会ってみたいんだ」  と口説いている。  中園龍平のコミュケーション術で通らない願いはないらしい。気がつけば礼司は首に赤いストラップで〝GUEST〟と書かれた名札を下げて、木村茜の後をついて歩いているのだった。 「少しだけですから。出演者の方は出番前は緊張なさるから。特別ですよ」  キムアカは何度も念を押している。そのたびに「はい」「大丈夫です」ときっぱり答える龍平である。  ホールの入り口横の目立たない場所にアルコーブがあり扉が設えられているのだった。木目調の模様が施され一見手動のようなデザインである。けれど扉横のタッチセンサーで開く自動ドアなのだった。キムアカは青いストラップで首に下げた社員証を翳す。開いたドアの向こうが一般客が入れない領域だった。  いくつも並ぶ楽屋の扉にはそれぞれに「柏家たっぱ様」「柏家音丸様」「柾目家逸馬(まさめやいつま)師匠」「柏家仁平(かしわやにへい)師匠」と名前を書いた紙が貼られている。  木村茜は柏家音丸の楽屋ドアをノックした。 「はい」と短く聞こえる低い声に途端に礼司は胸がきゅんとする。龍平に到ってはまた頬を上気させて掌を握ったり開いたりしている。この際、人間も妖も心を一つにして興奮しているのだった。 「出番前のお忙しい時に申し訳ありません。実はこちらのお客様がぜひ音丸さんにお会いしたいとのことで。ご存知かどうか、前に弊社に在籍しておりました中園龍平という社員の従兄弟(いとこ)の方が……」  細く扉を開けて説明しているキムアカの背後から、 「音丸さん! 僕だよ」  龍平が手を振っているのだった。 「ああ……どうぞ」  姿見に向かっていた音丸は、ちらりとこちらを見やって頷くのだった。既に着流しで羽織に腕を通しているところだった。  木村茜が「短めにお願いしますね」と礼司に釘を刺す間もあらばこそ、龍平はドアを大きく開いて玄関に踏み込んでいるのだった。 「木村主任。ちょっといいですか?」  廊下の奥から呼ばれて、キムアカは楽屋を出て行った。  四畳半程の畳敷きの楽屋には礼司(龍平)と音丸の二人が残された。二人の間にあるのは茶碗や弁当が置いてある座卓だけである。  音丸はまた姿見に向き直って羽織紐を結んでいる。 「松橋さんですね。いつもありがとうございます」  鏡越しに玄関先の礼司を見て言う。  龍平は誘われもしないのに靴を脱いで座敷に上がっている。そして持参した手提げ袋を卓上に置くと、 「僕〝獺祭〟を持って来たんだ。音丸さん後で呑んでね」  かすかに眉間に皺を寄せた音丸に構わず龍平は座卓に置いてある赤いストラップの〝GUEST〟の名札を手に取った。 「……おい」  いきなり剣呑な声がした。  完全にこちらに向き直った音丸が鋭い目で睨み付けている。頭の隅っこで縮み上がる礼司とは裏腹に龍平は嬉し気に笑みを浮かべて、 「覚えてないの? 僕達が初めて会ったのはこのビルの一階エレベーターホールだよ。僕が音丸さんの首にこれを、こうして掛けてあげたじゃない」  赤いストラップを音丸の首に掛けようとしている。  にわかに音丸は後退り姿見に背中を張り付ける形になってしまう。  ここぞとばかりに音丸の首にストラップを掛けて、ついでに胸元に下がった〝GUEST〟の名札をちょいと触って真っ直ぐに直す龍平である。 「後で僕、キムアカに叱られたんだ。ゲストに対して馴れ馴れし過ぎるってさ」 「…………」  音丸は何とも言い難い表情で龍平と自分の胸元の名札とを見比べている。構わず龍平は音丸の腰に両手を回して身体を合せて実に楽しそうに話し続ける。 「楽屋に案内したのも僕だったよ。あの時は隣の部屋だったね。今日はたっぱさんが使っている部屋」 「松橋さんですよね?」  硬い声が上から降って来る。龍平はちらりと顔を見上げただけで密着した身体を離す気配もない。 「違うよ。龍平だよ。中園龍平」 「龍平の従兄弟だと、社員の方が……」 「せっかく会いに来たのに。僕が龍平なんだよ。ねえねえねえ、音丸さん」  少し爪先立って、こちらを見下ろしている音丸の唇にそっと口づける。  途端に強い力で身体を振り払われた。  見事にすっ転んだ龍平は座卓の角に後頭部をぶつけてから畳の上に倒れた。  急須や湯呑みも勢いで吹っ飛んだらしく音をたてている。「あっ!」と音丸が驚く声も重なって聞こえた。  にわかに礼司は側頭部の痛みを我が物として感じる。龍平も茶碗と共にどこかに吹っ飛んだのか存在が感じられない。 「ってー!」と頭を抱え込む。結構な痛みである。こんな時ばかり礼司の意識は身体に戻るのだから間尺に合わない。  ふんわりと香気と共に肩を抱かれて助け起こされる。 「大丈夫ですか?」  掌が頭部を包むように当てられて、細い指が巻き毛の下の肌を探っている。 「瘤が……すみません。つい力を入れてしまって」 「僕なら全然大丈夫だよ、音丸さん」  って、おい!  また礼司は奥に追いやられて龍平が前面にしゃしゃり出ている。礼司のぶつけた側頭部にそっと触れる音丸の繊細な指の感触を味わって恍惚としている。 「ねえ、わからないの? 音丸さん。せっかく会いに来たのに」  そうして抱き起された体勢のまま、また音丸の両肩に手を回している。信じられない程の色っぽい目つきで、音丸の一重の瞳を見つめているのは礼司ではなく龍平である。 「僕まだあの部屋に……月光荘にいるんだよ。来てくれるよね、音丸さん? 僕ずっと待っていたんだよ」  まるで操られるように礼司の側頭部に当てていた音丸の掌が後頭部に回され、そっと胸に抱き寄せられた。頬に柔らかい絹物が触れ音丸の香りを胸いっぱいに吸い込んでうっとりした途端に、 「あにさん、よろしいですか?」  楽屋のドアがのノックされた。  外で声をかけているのは妹弟子のたっぱだった。 「ああ」答えると同時に音丸は立ちあがっていた。その手に支えられていた礼司はまたしても、ころんと畳に倒れてしまう。  楽屋のドアを開けたたっぱが見たのは、玄関先で草履を履いている音丸と、畳に這いつくばって散らばっている茶碗を拾ったりこぼれたお茶を拭いている松橋礼司の姿だった。 「松橋さん? お茶をこぼされたんですか?」  あわてて畳に上がろうとするたっぱを「いいんだ」と制したのは音丸である。

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