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第五章 4 ネタ帳とコンプライアンス
4 ネタ帳とコンプライアンス
「仁平 師匠が入られました。この陽気だからきっと〝青菜〟じゃないかと」
たっぱは手にしていた和綴じの帳面を差し出した。
ドアの外に立っているのは戸口に音丸が立ちはだかっているからである。
「……だろうな」
ネタ帳をぱらぱらと捲って過去の演目を見ながら、音丸は頭一つも背が低い女前座に向かって訊くのだった。
「逸馬 師匠は〝花見酒〟あたりかな?」
「ええ。あの師匠は年中花か酒の噺です」
基本落語家は同じ高座で他の落語家と同じ内容の噺をしないしきたりがある。
ましてまだ二つ目の音丸は間違っても師匠方の得意ネタを先に演るわけにはいかない。故に今日は〝青菜〟や〝花見酒〟は避けるべきだろう。また花や酒の噺もまずいだろう。
となれば自分の持ちネタの中で何を演るべきか。選ぶのはなかなか大変である。
落語界のしきたりも知り始めた礼司には高座前の音丸が何を考えているか推測できるようになっていた。
ネタ帳を繰る背中を見ながら畳から拾い集めた茶道具を座卓の上に整えた。ついでに倒れた手提げ袋の日本酒の箱も丁寧に置き直すと玄関まで来て靴を履いた。
音丸は礼司の背中を当たり前のように押して、
「たっぱ、お客様を会場までご案内してくれ」
と妹弟子 に命じるのだった。
頭の瘤を撫でながら未練がましく振り返ったのは龍平であり礼司でもある。もう一度あの細い指で巻き毛に触れて欲しかった。けれど、
「〝獺祭〟皆さんで呑んでね」
音丸にともなく、たっぱにともなく言うばかりだった。
音丸はネタ帳に目を落したまま二度と礼司を見ることはなかった。
会場に戻る廊下を押し黙って歩いているのは礼司で、龍平はたっぱに対して言っていた。
「咲也 さんは逸馬師匠と一緒で大丈夫なの?」
口を動かしている礼司には意味不明の言葉である。
たっぱは黙って歩いて行くと、赤いストラップについている〝GUEST〟カードをドアの横にあるタッチセンサーに翳すのだった。そして振り向くなり頭を下げた。
「お陰様で……今の私は柾目家咲也 ではなく、柏家たっぱです。今後ともよろしくお願いします」
「そうだね。二度目の前座修行、頑張ってね」
うっすら微笑みながら言う龍平だった。
改めてふかふかの絨毯が敷かれた会場ロビーに出る。たっぱはそれ以上見送ることもなく、楽屋に繋がるセンサー付きの扉は唸り声のような音と共に閉ざされたのだった。
礼司は自分の胸元に下がる赤いストラップの〝GUEST〟名札を外すと賓客受付の新入社員に返した。受付に立っている先輩社員はキムアカではなく知らない男性社員になっていた。
客席に行く前に、もう一度楽屋への扉を振り返って見た木目調ドアは二度と開くことはなかった。
龍平がたっぱに放った言葉は理解できなかったが、声音に含まれたそこはかとない悪意は感じ取っていた。
何故かそれが少しばかり怖かった。
第三十三回 初音落語会
平林 たっぱ
紺屋高尾 音丸
漫才 ペペロン&チーノ
お仲入り
花見酒 逸馬
青菜 仁平
翌日スマホのカメラロールを確かめれば演目表の写真が残っていた。
けれど礼司の記憶には聞いたはずの落語は殆ど残っていなかった。
楽屋で会った音丸の声や手触り衣擦れの音や香り……そんなものばかりが記憶に塗りこめられていた。龍平に感覚を奪われてほんの短時間しか味わえなかったが、思い出すだに恍惚とする。
だから月光荘に帰るなり布団にもぐり込み浅ましくも自分で自分を慰めていた。龍平の五感に横取りされた音丸の感触を想像しては息を荒げる。
あの鋭い一重瞼を舌先でそっとなぞりたい。そうして鼻筋を舐め下ろして唇を重ねるのだ。唇を割って入りあの低音を操る舌を口中に味わいたい。自分の舌で導いて充分にいたぶってやる。何なら吐息も低い声に違いない。
深い口づけを交しながらあの痩身に両手を回して貝殻骨を掌で存分に愛撫しよう。
片手で背筋をそっと撫でおろし尾てい骨のやや上の窪みに辿り着いたら、反対の手で前に触れればもう立派に屹立しているに違いない。
充分に潤っているだろう物を激しく扱けば、身悶えしながらあの低音の熱い吐息が礼司の耳朶をくすぐるだろう。
「あはん……」と吐息をつくのは礼司一人である。握っているのは自分の物なのに、あの男の物にも思える。
あの男の昂りは礼司の掌に、いや口中に納まりきるのか……などと思った途端に「あ、んんっ!」と一人身震いして熱い白濁を放っている。
はしたないにも程がある。頬が熱いのは興奮のせいばかりでなく羞恥心のためでもある。
あんな清廉な姿で高座に座る男を想像で裸に剥いて勃起させているのだ。そう思っただけでまたも勃ち上がる礼司の物である。一人扱く手は止まらずに、何度も精を放って息が上がってやがてぐずぐずと眠りに落ちるのだった。
何故こういう時に限って妖 は出て来ないのか、そればかりが不満だった。
精も根も尽き果てて泥のように眠りこけて翌朝目覚めても床から起き上がれなかった。そうしてスマホで演目表を眺めるうちに初音落語会のことを思い出すのだった。いやむしろ会がお開きになった後のことである。
会場にはいつものジジババ四人組が訪れていた。さすがに株主優待券では四人並びの席はもらえなかったようで、赤髪紫髪の婆様方や白髪と禿げの爺様方が点々と離れて座っていた。
そして落語会の後にお茶に誘われた。初音製薬ビルの地階は地下街に直結しており、その中にある喫茶店で感想などを話したのだ。
そこで礼司が知ったのが〝柾目家咲也 〟と〝柏家 たっぱ〟が同一人物ということだった。
「柾目家咲也……というのは誰なんですか?」
礼司の質問に対してジジババは少し困ったような顔をしていたが、ぽつぽつと話し始めたのは赤毛の婆様だった。
「知ってる人も多いけど、あまり言わないであげてね」
と口止めしての内緒話だった。
その店には落語会帰りの客も大勢いたので、自然声も抑え気味になっていた。全員がテーブルに身を乗り出して、悪事の相談でもしているような塩梅だった。
「今のたっぱさんが元・咲也さんよ。今日出演なさった柾目家逸馬 師匠の弟子の究馬 師匠、その弟子だったの」
赤毛の言葉に礼司は一門の家系図を思い描いている。
「つまり、逸馬師匠の孫弟子にあたるのが咲也という人で、今はたっぱさんなんですか?」
「そうよ。一度、落語家を廃業してから柏家仁平 師匠のところに再入門したの。だから今は音丸さんの妹弟子の柏家たっぱなわけ」
「ちなみに〝たっぱ〟は音丸さんが前座時代に名乗っていた名前だよ」
白髪の爺様が口を挟む。
頷く礼司もそれは既に知っていた。前座時代の音丸は〝たっぱ〟だったが、二つ目に昇進して〝音丸〟に改名したのだ。一門で前座名が引き継がれるのはそう珍しい事でもない。
「あまり大きな声では言えないけれど……」
と赤髪の婆様はいよいよ声をひそめている。
「咲也さんが辞めたのは逸馬師匠に乱暴をされたからという噂なの。逸馬師匠は昔から酒癖も女癖も悪くて有名だから、さもありなんと思うわよ」
「うそ。そうだったの? 私は真犯人は謎だと思ってたわ。だって、あんなの濡れ衣だし」
と口を出すのは紫髪である。
禿げ頭の爺様が勢い込んで言い募る。
「まったくなあ。山荘の泊り仕事で咲也を襲ったなんて、とんでもねえ濡れ衣だ。冤罪も甚だしい」
「え? 待っ……えっと、逸馬師匠がたっぱさんを襲ったのは冤罪なんですか?」
どうにも話が呑み込めない礼司である。赤毛の婆様は強い口調で言い直すのだった。
「違うわよ。犯人は逸馬師匠で、濡れ衣を着せられたのは音丸さん!」
「シッ! 声が大きい」
紫髪の婆様が口元に人差し指を立てて言う。
思わず礼司はあたりを見回してしまう。満員の客席の誰もこちらを見てはいない。それぞれお喋りに夢中なのである。
「音丸さんがそんな男じゃねえってなあみんな知ってんのに。逸馬の御大にゃ誰も逆らえねえ。濡れ衣を晴らすどころか……仁平師匠まで謝りに行ったてんじゃねえかよ」
禿げ頭の爺様は見事なべらんめえ口調である。地方出身の落語家よりはるかに江戸っ子らしいのだった。
「音、音丸さんがたっぱさんを襲ったって……濡れ衣を着せられたんですか?」
呆れて尋ねる礼司に向かって四人のジジババは揃って強く頷くのだった。礼司は少しく頭が混乱している。
「いや……しかし、そういう噂があるなら……何でたっぱさんは音丸さんの妹弟子になってるんですか?」
「そこが仁平師匠の漢気 ってやつだよ!」
禿げ頭が我が事のように自慢する。
「逆に元・咲也を弟子入りさせて音丸さんに面倒を見させる。音丸さんはこれっぽっちも悪くねえって身の潔白を証明するようなもんさ。暗に真犯人は柾目家の逸馬だと言ってんのよ」
「そ、そうなんですか?」
いよいよ頭がくらくらするばかりの礼司である。
いずれにせよ初音ホールで龍平がたっぱに放ったのはあまり優しい言葉ではなかったらしい。あの女前座にそんな過去があるなら、むしろ知らんふりをするのが優しさだろう。
「でも私は咲也……たっぱさんの芸風は柾目家より柏家が向いていると思うのよ」
静かに語る紫髪の婆様に皆一様に頷いている。赤髪が代表するように、
「仁平師匠の元に移ったのは良い選択だったと思うわ。二つ目昇進が楽しみね」
と応じるのも皆がたっぱを気遣っているからのようだった。
礼司自身はそれらの面倒臭いセクハラ事件(?)をどう考えたらいいのかわからない。音丸が〝そんな男〟かどうか知る程には親しくはないし。
むしろ落語という旧弊な世界に怖気づくばかりである。そもそもあの業界にはコンプライアンスだのセクハラ、モラハラといった横文字言葉は存在するのだろうか?
毎晩のように音丸をオカズに一人エッチをしている礼司が、そんな疑問を抱くのもどうかとは思うのだが。
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