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第六章 1 罠の中
第六章
1 罠の中
とりあえずジジババ四人組に聞いた咲也=たっぱ事件については面倒なので考えないことにする。どうせしばらく音丸には会えないのだ。
〝音丸通信〟のスケジュール表を見れば音丸には毎日のように仕事がある。
けれど礼司は初音落語会以降のチケットは取っていない。大学で前期の中間試験が始まっているからである。前もって試験勉強のために落語鑑賞は休むことに決めていた。
個人的に話すどころか高座姿を見ることも叶わないのだ。辛抱できずに大学の帰りに寄席に寄ろうとしたこともある。寄席なら前売券などなくとも入れるのだ。
だが帰路と違う地下鉄に乗ろうとする度に、
「試験勉強は?」
と脳内に響くのは中園龍平の声である。
「そんなの放っとけ!」と叫びたい。
けれど同時に寄席に向かう地下鉄に乗らなかったことに安堵もしている。
礼司は地下鉄に乗るのに少しばかりナーバスになっている。通学の路線はいつも一人で乗っているが、浅草の寄席に向かう電車にはかつてツクツクと共に乗ったのだ。薄情なようだが今はまだ有田津久志のことは思い出したくないのだった。
試験期間にした唯一の推し活はチケット予約をすることだった。新宿末廣亭七月三十一日の興行いわゆる余一会である。
毎年末廣亭の七月余一会 は〝四派連合の会〟だった。
落語界には四つの派閥がある。柏家音丸が属している落語家協会、柾目家逸馬 が属している落語芸能協会、それに盾川流 、猿楽党 である。
ホール落語ではそれぞれの落語家が共演することも多いが、寄席に同時に出演することはめったにない。
そのめったにないのが〝四派連合の会〟である。
各派の代表的真打が寄席に一堂に会するのだから前評判も高く、普段は当日券のみの寄席がこの日ばかりは前売券を発売する。例年発売日の十時ジャストにチケットサイトにアクセスしても秒単位で売り切れるという。
今回は特に落語家協会代表としてまだ二つ目の音丸が選ばれたのだ。前座代わりとはいえ大抜擢である。落語ファンは大いに沸いて結果いつも以上のプラチナチケットになったのだった。
幸いなことに大学の教室に赴いてのテストは終了していた。何本かのレポート提出が残っているだけである。礼司は朝から机に向かってレポート執筆をしながら、十時になるやチケットサイトにアクセスした。そして何とか一枚のプラチナチケットをものにしたのである。
それで弾みがついたのか、また落語のチケットを何枚も申し込んでいるのだった。
音丸は夏に東北地方を巡業するらしい。ならば仙台の実家を拠点に各公演について回れるではないか。そういった遠征がすぐ思い浮かぶのは宝塚ファンの姉の影響らしい。
そんなわけで礼司は大学の試験を凌いだだけで就活もどこへやら、今や推し活に邁進するばかりである。
試験結果が発表されたが礼司は常より好成績だった。さして勉強したわけでもないのにこの結果は妖 の助力があった気がしないでもない。
試験が終われば後は夏休みを待つばかりである。裕奈はヒストリア・グルニエの部室に寄るようだったが礼司はまっすぐアパートに帰ることにした。
午後も早い時間である。ちうりっぷ商店街のコンビニで昼夜兼用の食事におにぎりを何個も買って帰る。日差しはきつく蒸し暑い空気は既に真夏のようだった。
礼司のワードローブもTシャツにデニムという簡易な物になっている。とはいえ長年着倒して生地が薄くなったボロTではない。龍平が選びに選んだブランド店の高価なTシャツなのだ。その無駄遣い(礼司にとっては)のために夏休みになれば予備校のアルバイトを増やすことになっている。就活とか卒業後の進路は一体どうするつもりなのか?
いよいよ道に迷った気分で月光荘の階段を上がる。
と、二階の外廊下に人の気配がする。またしても警察がやって来たのか。足音を潜めて階段からそっと廊下を覗き込む。
途端に礼司の動きが止まった。全身が総毛立っている。
203号室の前に立っているのは柏家音丸だった。
例によって黒づくめの服だった。黒の半袖Tシャツに黒デニム、スニーカーも黒いのだが何故か靴下だけが白い。おそらく背負っているザックも黒だろう。
そうして気配に気がついたのかこちらを見た細面の顔に鋭い一重の瞳を認めた瞬間、礼司の意識はいきなり飛んだ。
龍平に乗っ取られたのである。
自分の意識が頭の片隅にぎゅうぎゅうに押しやられているのがわかる。
「何か用ですか?」と音丸に向かって胡散臭げに訪ねたいのに、テンションを上げた龍平が満面の笑みで、
「音丸さん! 来てくれたんだね」
小走りに駆け寄るのだった。今にも音丸に抱き着かんばかりである。
その瞬間に礼司は悟った。
ずっと龍平が落語を聞きに行かなかったのは別に礼司の試験勉強に配慮していたわけではない。音丸をおびき寄せる罠だったのだ。
初音ホールの楽屋で今も月光荘に住んでいるから来てくれと誘っていた。それきり龍平の姿が客席に見えなくなれば音丸は気になり自らやって来るだろう。
だが龍平が近づくと音丸は身を引いてしまうのだった。我が身をガードするかのように両手を胸の前にかざしている。礼司としては龍平に「ざまあみろ」と言いたい気分である。
「あの時の瘤は……もう大丈夫かと思って……」
音丸は口の中でもぐもぐ言っている。高座での滑らかな口調とは別人のようである。
そのためらいに構うことなく龍平は、
「もう引っ込んじゃったよ。ほら」
音丸の手を取って自分の側頭部に触らせる。
指先が巻き毛に触れた途端に熱い物に触ったかのように手を引っ込める音丸である。
「なら、いいん……ですけど。その節は大変失礼いたしました」
「あの時の〝獺祭〟は呑んでくれた?」
「お陰様で打ち上げの時にみんなで頂きました。ありがとうございます」
頭を下げている音丸の腕に自分の腕をからめて、
「寄ってかない? 今日の仕事は夜だけでしょう。まだ時間はあるよ」
反対の手でドアの鍵を開ける器用さは何なんだ? 頭の隅っこで妖の活躍を覗き見するばかりの礼司である。
「あの……」
音丸は腕を組まれたまま、また訝し気な視線で龍平とドアとを見比べている。
「松橋礼司さんですよね? 龍平のいとこの……」
「音丸さん、こないだから同じ質問ばかりしている」
笑いながら下部が凹んだドアを開けている。
「これ、音丸さんが蹴って凹ませたんだよ。昔、僕がうっかり眠剤を飲み過ぎて、全然連絡とれなくなって心配して来てくれた」
これ見よがしにドアを動かしながら、組んだ腕で音丸を玄関内に引っ張り込もうとしている。けれど音丸は敷居を跨ごうとはしない。
「いえ、龍平のことではありません。あなたは松橋礼司さんですよね?」
「最期に僕を見つけてくれたのは音丸さんじゃなかった。キムアカなんだもん。がっかりだよ」
龍平は腕を組んだまま音丸に身を寄せている。疑心暗鬼の塊になっている音丸と裏腹に、旅行で少しばかり離れていた恋人に甘えるかのようである。そして大袈裟に靴箱の上にある一升瓶の箱を目で示した。
「〝森伊蔵 〟もあるんだよ。音丸さんの好きな芋焼酎でしょう」
頭の隅の小さな穴から覗いているだけの礼司にもはっきりわかった。ほんの一瞬だが音丸の目から疑いの色が消えて焼酎の箱に視線が動いたのだ。何ならごくりと生唾を飲み込んでいる。酒呑みの浅ましさが疑心暗鬼をねじ伏せたらしい。
閉め切っていたワンルームは蒸し暑さが籠っていた。
「クーラー点けるね。すぐ涼しくなるよ」
と龍平はリモコンのスイッチを入れた。勉強机の上にあるエアコンからはまだ生温い風が吹き出すだすばかりである。
机やシェルフの横にはマットレスだけのベッドがあり、その枕元には念入りに揃えた性生活用品(コンドーム、ローション、その他色々)の小引き出しが置いてある。
ベッド中程の横には小さな座卓が据えられている。両側に人が座れるように何個ものクッションがある。
龍平は音丸を奥に座らせて、自分は向かい側に腰を下ろすと横に〝森伊蔵〟の箱を据えた。
結句この部屋のインテリアはこの男を招き入れるために作られたのだ。これまた今になって悟る礼司である。
フローリングの硬い床なのに音丸はきちんと正座している。高座で見るのと変わらない背筋の伸びた姿だった。
玄関を入る時には、しばし静止して部屋を見回していた。龍平に手を引っ張られて室内に上がると「そちらにどうぞ」と案内されるままに座った位置はひょっとしたら昔の居場所と同じなのかも知れない。それぐらい当たり前の姿だった。ただ表情は落ち着きがない。
「いや酒は……この後まだ仕事があるから」
言いながらも目は酒の箱をちらちら見ているのだった。
「じゃあ、お茶を淹れるよ。おにぎりを多めに買って来たんだ。音丸さんもよかったら食べて」
ころんころんとテーブルにコンビニおにぎりを転がすと、龍平は玄関わきの台所に立った。電気ポットで湯を沸かして湯呑みにティーバッグの緑茶を淹れる。引っ越しの日に裕奈と共に二人分の食器を揃えたのが初めて役に立った。
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