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第六章 2 シュールな思い出

2 シュールな思い出  音丸が室内を見たのは入る時だけで、今はただ手元を見ている。意味不明なこの状況で更に余計な物は目に入れたくないと言わんばかりである。  ちらりと背後を振り向いて勉強机の上に飾ってある色紙に目を留めた途端、見てはいけない物だったかのように視線を膝の上に戻した。 「音丸さんの書いた色紙。会社にあったのをキムアカにもらって来たんだ」  龍平が言うのにも黙っている。そして膝の上で手指を無駄に動かしている。  高座の音丸は言葉のつなぎに膝の上で扇子をもてあそぶことがある。おそらくザックの中には衣装と共に扇子があるはずだが、手持無沙汰だからといって取り出すはずもない。  龍平は静かにテーブルに湯呑みを置いている。音丸はまた居住まいを正して、 「だから……あなたは松橋礼司さんですよね? いくら従兄弟だからといって、龍平の真似をするのはやめていただけませんか」 「真似じゃない。僕が中園龍平なんだよ。僕ずっと音丸さんに訊きたかったんだ。何でお葬式に来てくれなかったの?」 「はあ?」訊き返したいのは礼司である。  問われた音丸はといえば、表情を失くして石の如く固まっている。 「死んでる僕を発見してくれたのはキムアカだし。音丸さんはお葬式にもお墓にも来なかった。いくら何でも冷たすぎない?」  問い詰められて、いよいよ音丸は岩石である。  頭の片隅に押しやられた礼司はあまりのシュールさに呆れている。この(あやかし)は恋人が葬式や墓に来なかった恨みで現世に化けて出て来たのか?  礼司の思惑に構わず、その身体を操る龍平は静かにお茶を啜っている。そうしてコンビニおにぎりのフィルムを剝き始める。 「音丸さんの三角おにぎりまた食べたいな。僕、電子レンジに残したまま逝っちゃったし……」  などと言いながらツナマヨおにぎりを口に運んでいる。  音丸は助走をつけるかのようにぱくぱくと口を動かした末にようやく声を発した。 「じゃあ何で……何故死んだんですか? あなたが松橋さんじゃなく龍平なら知っているはずですよね」  龍平はもぐもぐと咀嚼しながら首を横に振っていた。ごく日常的な仕草である。 「僕、好きで死んだんじゃないよ。うっかり薬を飲み過ぎただけ。新しく処方された眠剤で、前の薬と飲む量が違ってたのかな。全然眠れないんだよ。だからビールでも呑もうかと思って」  対面の音丸は呆然と聞いているが礼司も同じ気分である。自分の口が見事に間抜けな顛末を語っているのをただ脳内で聞くばかりである。 「ビールを呑んでるうちに音丸さんの三角おにぎりを食べたくなって。冷凍のを電子レンジに入れて……そしたら封を切った芋焼酎がまだ残ってたから少し吞んでみて。それでまた薬を追加したのかな? よくわかんないや。結局おにぎりは食べられなかったし……」 「おまえ……」と腰を浮かせて言いかけた音丸の言葉を龍平は遠慮なくぶった切った。 「言わなかった? 僕その呼び方嫌いなんだけど。〝おまえ〟って誰?」  一瞬言葉に詰まったが音丸も負けていなかった。 「……そんなことで死ぬ奴があるか⁉」  高座から客席に放つような大音声だった。今にも殴り掛からんばかりの体勢の音丸だが、龍平はその場に根が生えたかのように座って音丸を睨め上げた。 「音丸さんこそお葬式にもお墓参りにも来てくれなかったくせに‼」 「何度も同じことを言うな‼」  阿吽の呼吸とはこのことか。見事なタイミングの二人だった。  礼司としては、やはりこれが化けて出た最大の動機だったのかと確信する。  龍平がツナマヨの最後の一口を口に放り込んで呑み込むまで音丸は一言も発しなかった。ただ膝の上で拳を握りしめていた。ようよう口から出たのは、 「……知らなかったんだ」  地の底を這うような低い声だった。  龍平は首をかしげて音丸を見つめている。 「おま……」言いかけて音丸は言葉を飲み込んだ。そしてにわかにこちらを直視した。それはまるでぎらぎら光る刃物のような鋭い視線だった。 「龍平が死んだと知らなかった!」  切れ長の一重の瞳が切るような勢いで龍平を睨んでいる。 「ずっと後になって百合絵さんが教えてくれた。というか、百合絵さんもそれまで知らなかったらしい」 「何それ?」 「おま、龍平が隠していたからだ。私や落語一切のことを隠していた。部屋にはチラシの一枚もなかったし、LINEのやりとりもいちいち削除していた」  内心礼司は頷いている。落語関連の一切合切、ネタ帳やチラシ類も会社のデスクかどこかに隠していたのだ。木村茜主任が何年もたってから見つけるような秘密の場所に。 「ご両親が百合絵さんに連絡されたのは四十九日も過ぎた後だった。ファンサイト〝音丸通信〟を閲覧してたことに気がついて、脱退すると電話をくださったそうだ。もともとあれは会員制じゃないから連絡もいらなかったんだが……お陰でようやく我々に訃報が届いた」 「四十九日が過ぎた後っていつなの? 僕が死んだのは十月二十八日だよ?」  幽霊が自分の命日を明かす。  礼司はもはや事態について行けない。それは音丸も同様なのか、視線をさまよわせた揚句に、また自分の膝に向かって言っている。 「十二月の……あれは中席の頃だった。いつだったかはよく覚えていない」 「そん、そんな……十二月って、音丸さんは、音丸さんていつも連絡がなくて、僕ばかり連絡してて、だけど、だから……」  取り乱す幽霊に正座した人間は噛みつくように言い放った。 「だから! おまえはいつも別れたいと言ってたじゃないか。私はめったに電話をしなくて……LINEもメールも返信が遅いと怒っていたじゃないか。それでもう嫌われたのかと。黙って引っ越したのかと思った」 「何を勝手に思い込んでるんだよ⁉」 「あの時、一週間ばかりの旅仕事で……東北から帰った足でここに来た。夜遅くにチャイムを鳴らして……出ないから合鍵でドアを開けたら空き部屋だった」  切れ長の瞳がここではないどこか遠くを見つめている。 「龍平は引っ越した後だった。実はご両親が荷物を引き揚げ後だったんだが。でも私はとうとう捨てられたと思った……別れるつもりなんだと」 「百合絵さんとかシニア四人組とか、僕が落語会に行かないのをおかしいと思わなかったの? 少しぐらい心配してくれたって……」 「若い落語ファンは年配者とは違う。結婚したり仕事が忙しくなったり……環境が変わりがちだ。落語どころではないのかも知れないと。百合絵さんはあえて深追いしなかったんだ」  龍平は呆然としている。礼司もまた珍しく同じ気分である。  湯呑みを取って口に当てた音丸は、目だけで龍平の傍らにある芋焼酎の箱を見ている。 「……少しだけ、いいかな?」  言われると龍平は箱を開けて一升瓶を取り出した。身軽に台所に立ってグラスに芋焼酎を注いでいる。 「少しでいい。ほんの一口……」そう言う音丸に対して、 「お湯割りにするよ。とりあえず中から暖めよう」  龍平の言葉はいかにも場違いだった。  点けたばかりのクーラーはまだ大して冷風を送って来ない。部屋の隅々に蒸し暑さが溜まっているのに。  音丸はただ黙って正座していた。そして焼酎のお湯割りを差し出されて震える手で受け取った。そっと口を付けて一口呑んだところで龍平が、 「ちょっと味見させて?」  と手を出した。驚いたのは礼司である。 「おい、待てよ! 俺はアルコールは呑めないぞ」言いたい言葉は頭の中に留まって口から出せない。今の身体を司っているのは龍平だからである。  そのことに慌てふためいていたから、正面の音丸がいきなり壊れたのに気がつくのが遅れた。  気づいたのはグラスが床に落ちて中の液体が飛散した音だった。同時に怪鳥の雄叫びのような短い悲鳴が響いた。  グラスを取り落した音丸は両手で顔を覆ってうずくまっていた。その手は激しくぶるぶると震えている。正座した膝に突っ伏して頭を抱え込んで何かを引き裂くような声を発している。  対する龍平ときたら、してやったりという表情である。 「覚えてるよね? 寒かったよねえ。二人でお正月にお湯割りを呑んで……秘め初めをしたよね」  ひどく落ち着いた声で言いながらタオルを持って来ると、床に落ちたグラスを拾って濡れた床を拭いている。そして焼酎で濡れた音丸の膝や胸を拭きながら、 「だから僕は龍平なんだよ。こんなの知ってる人、他にいないでしょう?」  静かに言って聞かせるのだった。  礼司にも推測は出来た。二人きりの思い出なのだろう。もはや松橋礼司の出る幕はないのだ。 そう思った時、奇妙に意識のブレがあった。  音丸は離したら死んでしまうとばかりに強く両手で顔を覆っている。龍平はその身体ごと両腕で抱えてなだめるように言っている。 「僕は音丸さんに会いたくて来たんだよ。身体は松橋礼司でも、心は中園龍平なんだよ」  そっと音丸の顔から両手を外して、滂沱と涙を流している頬に口づけをする。唇で涙を拭きとらんばかりである。  龍平は舌先で音丸の一重瞼をなぞって鼻筋から唇まで唇を動かしている。そして舌先で唇をなぞって割ると口の奥を伺うように愛撫している。誘われて音丸の舌もこちらの口中を探っているのだろう。それは礼司がマスターベーションの時に想像していたとおりだった。  なのに礼司には初めて触れた音丸のぬくもりもわからない。  もはや身体が意識とは遠く離れ過ぎている。  深い口づけを交しているうちに音丸は「違う!」と龍平の肩を突き飛ばした。  あまりに唐突だったので龍平はまたも座卓に激しく身体をぶつけていた。  同時に礼司もどこかに飛んだ。

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