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第六章 3 愛欲と幽体離脱

3 愛欲と幽体離脱 「何でこんな風に……松橋さんだろう⁉ なのに、どうしてこんな龍平みたいな……」  いよいよ頭を抱え込んで涙ながらに咆哮する音丸である。  あるいは音丸は「龍平みたいな前戯」と言いたかったのかも知れない。当然だろう。今音丸のそばに居るのは礼司の身体を乗っ取った龍平本人なのである。音丸は未だ忘れ得ぬ男の接吻や愛撫を今更体感しているのだ。恐慌にも陥ろう。  座卓も動かして床に転がった龍平は、ただ音丸を見ている。全身を震わせて獣のように吠えている音丸である。  礼司にはその音丸の声も木霊のように遠く聞こえる。  気がつけば二人を眼下に見下ろしているのだった。  何なんだこれは⁉  あたりを見回して自分が天井の隅にいると知る。  ワンルームの中で二人から遠く離れている。  意識が肉体から飛び出したのか?  幽体離脱⁉  うそだろう‼  身体は重力の法則どおりに床にある。  けれど意識はふわふわと宙に浮いている。  眼下では龍平がまた音丸に近づいて身体ごとそっと抱いている。今度は逆に音丸がその身体を強く抱き締めている。「いたた」と嬉し気に呟く龍平だが、礼司はその痛みもまるで味わえない。  どうすればいいのだ⁉  どうすれば自分の肉体に戻れるのだ?  もう一生自分はこうして中空に漂っているのか?  我が身は妖が好き勝手に操るのか?  絶望の中で礼司は二人の恋人たちが昔を思い出すごとくゆっくりと抱擁し、やがて一糸まとわぬ姿で重なるのを眺めるしかなかった。  湿気の多い空気が〝遠き山に日は落ちて〟のメロディーを伝え来る。 「……五時だ」  眠っていた音丸がにわかに身を起こした。  この部屋で聞こえるチャイムが何時を表すかとうに知っているようだった。  裸で抱き合ってうとうとしていた龍平は「うん」と呻ってまた両手を音丸の身体に回す。それを外して、 「すまん。これから仕事だから……」  音丸がベッドから出て行く。風呂場でシャワーを浴びている音が聞こえて来る。  龍平はまた眠ってしまいたいのだろうが、身を起こしたのは礼司だった。  気がつけば意識や感覚は自分の肉体に戻っていた。  掌を握ったり開いたりして身体が意のままに動くことを確認する。戻って来た自分の意識で手足を動かしては一人にやにやしている礼司である。  おそろしく身体がだるいのは激しい行為を何度も重ねたからだろう。なのに悦びはなく疲ればかりが残っている。肉体の興奮が頂点に達した時、わずかばかりの快感が天井の意識にも届いたが、まるで爪楊枝で肌をつんつん突かれるような薄い興奮だった。  これまた間尺に合わない話である。欲求不満が募るばかりの礼司である。  浴室から身体を拭きながら出て来た音丸に、冷凍庫から取り出した保冷剤を手拭いで包んで差し出した(落語を聞き始めてから何故か室内には手拭いが増えていた)。 「目が真っ赤だよ。しばらくこれで冷やしといて」  号泣したせいで一重瞼はすっかり腫れて白目は真っ赤に充血している。礼司はそこにアイスノンを当ててしまう。これも自分の手でやっている感触がある。 今や龍平は礼司の頭の隅で眠っている。久しぶりの音丸との情交に疲れ果てて満足したらしい。 「すまん」  目を冷やしている礼司の手の上に音丸の細い指先が重なる。礼司は全身に電気が走ったような痺れを感じてしまう。自分自身の肌感覚で音丸を味わう悦びである。  裸身をよく見れば音丸は肌のあちこちに赤い痕をつけている。穏便なキスマークもあるが、愛咬つまり歯で噛み付いた痕も多い。  殊に首の付け根の背中寄りには一際はっきりと歯形が残っている。  龍平が何やら囁いてここを噛んだ時も、音丸はまたむせび泣いたのだ。天井の隅にいてもその様子ははっきり見て取れた。龍平ときたら嬉し気にそこを何度も噛んだり吸ったりしては色を濃くしていた。  礼司にしてみれば、ベッドの二人の些細な言葉や仕草のたびに愛の歴史を見せつけられている気分だった。嫉妬のあまり、あえて感覚を閉ざしていたところもある。思い出すだに悔しく音丸の手を外すと、 「今、蒸しタオルを作るよ。冷やすのと温めるのを交互にやると早く腫れが引くんだよ」  と離れるのだった。流しで湯を出してタオルを温める。  ヅカオタの姉が観劇で目を泣き腫らして帰ってくる度に、洗面所を独り占めしてこれをやっていた。今度ばかりはその迷惑行為を有難く思う。  そうして多少の腫れは残ったものの従来のすっきり鋭い一重の瞳に戻って音丸は月光荘を出て行った。ドアを細めに開けて見送る時に、礼司は音丸の指に指を絡めて言ったものだった。 「終わったら帰って来てね、音丸さん。夜中でもいいから。待ってるからきっとここに帰って来てね」  それは龍平の言葉だったが、礼司の気持ちでもあった。握った手指を口元に寄せて口づけをしながら繰り返した。  音丸は真意の読み取れない不思議な目で礼司の唇が触れる自分の指先を見ていた。 「すみません、松橋さん」  呼びかけたのは音丸ではなかった。  もっと高い声の主が音丸の背後から顔を覗かせていた。黒縁の丸メガネをかけた作業着姿の常見可音である。ぎょっとして礼司は握っていた手を放した。  音丸も即座に踵を返した。目の前の可音に軽く会釈をすると立ち去った。 「おーばさんから伝言が……」  すぐに話し始める可音である。ドアにすがり付くようにして音丸の背中を見送る礼司に向かって、 「今月中にドアを修理するって。後で都合のいい日を教えて」  可音は下が凹んでいるドアを示して言うのだった。礼司は後で大家宅に電話すると答えて可音を返した。  ドアに鍵をかける頃には甘い気分も消えていた。そして少々不安になって来た。  というのも礼司はパンツ一丁で玄関先にいたのだ。室内に戻ってから気がついたのだが自分も肌のあちこちに赤いキスマークを付けていた。可音に立ち去った男との関係を疑われたのではないか。いよいよ気分は沈静化するのだった。  夜半過ぎ、ドアの外に気配を感じて目を覚ました。遮光カーテンで閉ざされた部屋は真っ暗である。礼司は今が所謂〝丑三つ時〟かと感じながら身を起こした。  音丸が仕事から帰って来たかと思ったのだがノックやチャイムの音もない。Tシャツにパンツで熟睡していたが、ふらふらとベッドを出てドアの鍵を開けた。  外廊下を立ち去る人の気配がある。扉を開けてみれば、廊下の蛍光灯に照らされて真っ黒な服の男が階段に向かって静かに足を運んでいた。 「音丸さん?」  サンダルを引っ掛けて廊下に出てみれば、黒い影はゆっくりこちらを振り向いた。そこだけ時間の進み方が遅れているかのようだった。 「帰って来たんでしょう? 何で行っちゃうの?」  この哀切さ丸出しの声音は龍平の独擅場である。ぺたぺたとサンダル履きで駆け寄ってその腕に縋っている。 「ねえねえねえ、部屋に入ってよ。一緒に寝よう」  龍平の甘え声を誰かに聞かれないかと案じる礼司は、音丸が全身からとてつもないアルコール臭を発しているのも気づいていた。というか辟易していた。これが見知らぬ奴なら二階廊下から地面に突き落としてやりたいと思う下戸である。  落語家の打ち上げが凄まじいとは噂に聞いていたが、一体どれだけの酒を呑んで来たやら。 「一体どれだけ呑んで来たの?」  問う龍平も同じ気持ちらしい。 「もし……いなかったら……」  音丸は龍平に腕を引かれて302号室に戻りながら呟いている。 「もしまた部屋のドアを開けて……何もない伽藍洞で、龍平がまた、どこにも……誰も知らない所に行って……もうどこにも……」  玄関の一歩手前で立ち止まり両手に顔を埋める音丸に、 「いるよ! ここにいるってば! ねえ、見てよ音丸さん」  すかさず訴えて腕を引っ張る龍平である。だが音丸は激しく慟哭している。 「……いない。龍平はもう……どこにも、ずっと前に……とっくに、死ん……もう生きてない」  と膝から崩れ落ちそうな音丸を支えて龍平は必死で叫んでいる。 「Hey! Just listen! I'm not dead yet! 」  いきなり英語である。にわかに音丸の動きが止まった。  龍平を睨んだ音丸の目はちょっとした見物だった。顔を覆った手指の隙間からじろりとこちらを睨んだのだ。  眉間に皺を刻んで何とも憤懣やるかたない表情である。 「……日本語で言え」  涙声のくせに偉そうな命令口調だった。そうして龍平に摑まれた腕を振り払って「くらすぞ!」と頭を叩くと思いきや、天然パーマを鷲掴みにしてぐいぐい引っ張っている。 「やっ! やめ、痛、痛いって、音丸さん!」 「しゃーしい! いつも言いよろう。日本語で話しんしゃい!」  今泣いていた鬼が怒っている。それもよくわからない言語で。  揉み合っている二人は単にじゃれ合っているようである。その証拠に二人ともにわかに吹き出してげらげら笑いながら抱き合っているのだ。  何なんだこいつらは⁉  またしても二人の世界に引きずり込まれた礼司は腹立たしい限りである。こんな時に限って意識が空に飛ばないのも忌々しい。  揚句に廊下で龍平に抱き着いて音丸は寝息をたて始めるのだった。 「待っ、ここで寝ないで! 部屋に入って、音丸さん」  音丸はゆらゆらと全身を揺らして天然パーマの上に顎を乗せて眠っている。顔は涙でべとべとに濡れているのに、この上もなく長閑な表情である。  礼司はそのまま長身を背負ってそろそろと玄関に向かうのだった。 「もう、しょうがないなあ。音丸さんてば」  龍平は嬉しそうに困っているが、礼司は本気で困っていた。  両隣の住人に騒ぎを気取られないうちに室内に戻らなければ。

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