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第六章 4 愛の居残り
4 愛の居残り
窓の外で蝉が一声ジッと鳴いた。この夏初めての蝉が脱皮したらしい。遮光カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。
ベッドに寝たままカーテンの裾を捲って見る。窓を開け放ってあるのは室内のアルコール臭を換気するためである。既に涼しいとは言い難い朝の空気だった。
エアコンを入れるかどうするか?
迷いながら耳を澄ませば一定の感覚で寝息が聞こえて来る。黙って聞いているだけで頬が緩んでしまいそうな幸せな音である。
そっと横に目をやれば、下着姿の音丸が長い身体をのびのびと伸ばして熟睡している。いよいよ目尻を下げて微笑む礼司である。龍平も同感に違いない。
身を起こして偶然見えたに過ぎない。音丸の下着の中は力強く勃ち上がっている。昨日の午後あれだけ身体を重ねたのにまだまだ元気なのだった。
寝ている間に事を起こすなど下劣に過ぎる。
というか同意のない性行為は犯罪である。法学部の学生である松橋礼司は充分に心得ている。けれど中園龍平がどうなのかは知らない。
音丸の下着の中からそっと猛っている物を取り出した。昨日は天井の隅で眺めていただけだから礼司がそれに触れるのは初めてである。まずそのことに感激して、どきどきしながら朝の昂りを扱く。殊更丁寧に先端も愛撫する。
規則正しかった寝息に艶めいた呻き声が加わる。それを聞けば握った礼司の手にも力が入る。しまいには濡れた先端にそっと口づけをして、一人エッチで想像したように全体を口中に
納めてしまう。口で愛するこの行為も龍平に仕込まれたのだ。
聞こえて来る低い呻き声は喘ぎに変わり、ぞくぞくする程の快感を覚える。
気づけば礼司の下半身も痛い程に突っ張っている。身を重ねて二人分を手で合わせ持ち力強く扱き続ける。快楽を追い詰めるように繰り返し手を激しく上下させる。
「あっ……んんっ⁉」
先に達したのは音丸だった。放たれた白い体液を嬉しく見つめているうちに、礼司の白濁もそれに重なった。
これまでにない感覚だった。脳天から足の爪先までびりびりと痺れるような快楽にしばし身動きも出来なかった。
「龍……松橋さん?」
寝ぼけ眼の音丸が身体の上にいる礼司を呆然と見ている。音丸の襟元の背中寄りには赤い歯形がまだくっきりと残っている。
「違うよ。龍平だよ」
そう言ったのは礼司である。もはやどちらでもいいのだ。音丸の下着を剥がし、自分のTシャツも脱ぎ捨てて裸で再度身体を重ねる。唇を重ねたらやはりまだアルコール臭が果てしない。その口をずらして耳を舐めて耳朶を噛む。
「よせ!」と驚くほど鋭い声で音丸は礼司の口を手でふさぐ。
「着物の外に出る場所に跡は残すな」
と言いながら自分では礼司の耳を頬張っている。いや、餃子じゃないんだから噛まないでくれ……などと思いながら快感に吐息が漏れる。そして身体を返されて音丸の下になる。
遠くでキーンコーンカーンコーンと響く音に、
「お昼のチャイムだよ」
言いながら音丸の上で腰を振っているのは礼司であり龍平でもある。
クーラーは点けたものの、室内には日中の暑さが籠っている。二人は汗で肌を滑らせながら抱き合っている。
「今日も、夜席だけ……だから……」
喘ぎながら答える音丸の物を受け入れながら、
「またここに……んっ、んんっ、帰って、来てよ。き、きっとだよ、ああっ! 音丸さん!」
礼司は自分で自分の物も扱いている。
自分が礼司なのか龍平なのかもはやわからない。ただ天井の隅に飛ばされないだけで満足である。脳味噌がどろどろに掻き回されるような快感に集中する。もはや幽体離脱などどうでもいい。
「す、好き音丸さ、あっ、ああっ、好きだ、イクッ、音丸さん音丸さんん……ッ!」
全身に籠った熱を発散するかのように嬌声を上げているのだった。
音丸の腹の上に白濁を撒き散らす。やっとこの男の身体を自分の物にしたと満足しているのはたぶん礼司だろう。
礼司が音丸の名前を繰り返すのに応えて音丸はうわ言のように繰り返す。
「龍平、龍……あ、ああっ愛してる、龍平、龍平」
事後になればこの男の口から〝愛してる〟などと直截な言葉が出ることに驚くのだが、事の最中には当然とも思えるのだった。
ただあり得ないほど頻繁に〝龍平〟の名が発せられることには不満を感じるのだった。決して〝礼司〟という名前が発せられることはない。
その夜も音丸は帰って来た。夜中に玄関チャイムを鳴らして、礼司がドアの隙間から顔を出した途端に崩れるような笑顔になる。目がまるで糸のように細くなっている。そんな無防備な表情はこれまでどこでも見たことがない。わくわくしながら風呂で身体を洗ってやりベッドに誘う。夜が明けるまで二人して互いの身体を貪り合う。
翌日も、また翌日も……かくして柏家音丸は月光荘302号室に居残りとなった。
あの時のように礼司の意識が天井に飛ぶことはもうなかった。
時に激し過ぎる快感に頭が真っ白になることはあったが、意識が頭の隅っこにへばり付いているのはわかっていた。龍平が性的快楽を独り占めしてしまい礼司には何の感触も残らない。ひどく損をしている気はするが幽体離脱よりはましだった。
夜を日に継いで礼司(龍平)が音丸と愛し合っているうちに大学は夏休みに入ったらしい。その事実を知ったのは大家のおばさんが訪ねて来たからである。
玄関チャイムにドアを開ければ、真昼間の温気と蝉しぐれとが冷房の効いた部屋に一気に飛び込んで来た。
「あら、まだ寝ていたのね。ごめんなさいねえ。今日から大学は夏休みでしょう? ご実家に帰省される前にドアの修理をしようと思ったのよ」
赤縁メガネのおばさんは既に背後に修理人らしい作業服の男を従えているのだった。
「突然ごめんなさいねえ。お留守にお部屋に入られるのは嫌でしょう。ちょうど今なら修理が出来るって言うんで……」
と果てしなく話し続けるおばさんを、
「あ、そ、ちょっと待っててください」
と遮る礼司はパンツ一丁である。
「可音に伝言を頼んだけどお返事がないもんだから。松橋さんもお忙しいでしょうけど……」
閉ざしたドアの外でおばさんの声が聞こえる。
言われてみれば確かに可音の伝言は聞いていた。だが大家に修理の希望日を連絡するなど忘れ果てていた。ましてもう夏休みが始まっているとは思わなかった。
それ以上に問題なのはベッドの中である。全裸の音丸が熟睡しているのだ。明け方に帰って来て例によって散々愛し合ってから寝落ちしたのだ。
そもそも落語家の生活時間帯は世間一般と大幅にずれている。寄席の昼席は十二時頃に始まるからその出勤時間に合わせて一日が始まるのだ。場合によっては夜席始まりの午後五時が朝で終演の九時頃が昼飯時だったりする。
その後打ち上げが続けば深夜零時は軽く過ぎる。呑み会の時間配分も世の中とはかなり違っているから明け方まで続く場合も少なくない。
だから音丸の帰宅を待つ礼司も学生にあるまじき生活時間帯になっていた。大家のおばさんは世間一般の就業時間を考慮して十時頃に来たのだが、落語家基準では真夜中なのだった。
自分は服は着たものの、裸の音丸は揺すってもびくともしない。やたらに眠りの深い男なのだ。ちょっとやそっとではまず目覚めない。
「音丸さん、修理が来たから」
と言い訳のように言うのは寝かせてやりたい気持ちが先に立つからである。最近の音丸が隙あらば寝落ちするのは、ヤリ過ぎて睡眠不足に陥っているのだ。
とりあえず全裸で寝ているとばれないようにタオルケットでしっかり包んでから、改めて大家と修理人を玄関内に招き入れた。
驚いたことに修理人は電動ドライバーでドアの蝶番を外し始める。礼司は何となく凹んだところを叩いて直すのかと思っていたが、ドアごと取り換えるらしい。だから同じドアを調達するのに時間がかかったのか。妙に感心してその作業を室内から見守る。大家のおばさんも玄関内に入り込んで視線を同じくしている。
「まあ、偉いわねえ。ちゃんと自炊してらっしゃるのね」
にわかに言い出したのは、玄関から丸見えの台所に感心しているのである。
引っ越し当初に部屋を見た大家にしてみれば、台所道具が格段に増えているのがわかるのだろう。塩醤油砂糖に酢など調味料も一通り揃っている。
「いえ、ご飯を炊くぐらいで……」
と言うのは嘘ではないが、炊いているのは礼司ではない。いつの間にか音丸は炊飯器や米を持ち込んで、おにぎりを作るようになっていた。龍平のリクエストによる三角おむすびである。
音丸は柏家仁平師匠宅で住み込みの前座修行をしていたから家事全般が出来るのだ。特に料理に関してはおかみさんや娘さんに才能を見込まれて、正月のお節料理からクリスマスのローストチキンまで仕込まれたという。
だが龍平が好きだったのは単なるおむすびだった。音丸が細い指でしっかり握る三角形の飯である。それを知っていて炊飯器を持ち込んだ音丸だが、そうなれば中に入れる具やおかずも必要になる。
かつてペットボトル飲料ぐらいしか入っていなかった冷蔵庫はたちまち卵などの食材から各地の産物や珍味でいっぱいになった。音丸が旅仕事の度にもらってきた土産物である。
そうして二人狭い台所に並んで炊き立てご飯でおにぎりを作るのは新婚夫婦さながらだった。きっちり三角になっているのが音丸作で、礼司の作はただの丸い塊である。それらを冷凍庫に保存してその都度解凍しては食べるのである。
何しろヤッてばかりの生活だから大いに腹も減る。その都度電子レンジで冷凍おにぎりを解凍しては食べるのだった。
玄関の靴箱の上には酒がずらりと並んでいる。地酒の類は主催者やファンの贈り物だけでなく音丸自ら贖うこともあるらしい。これを呑むのはもちろん音丸一人なのだが。傍らでお酌する礼司はまるで新妻なのである。
そんな新婚の日々を思って一人にやにやしている礼司と裏腹に、おばさんは浮かない顔でため息をつくのだった。日光荘に暮らす可音が紙皿や紙コップで食事をしていると嘆いている。
礼司にとっては気楽で羨ましい生活だったが、家族としては心配なのだろう。
「今時は男の子だってこんなにちゃんとしているのにねえ。心配だから時々お料理を作って持って行くんだけど。よかったら松橋さんの所にも……」
「いえいえ、とんでもないことです。前にいただいたお料理の容器もお返ししてないのに……あれ、どこにしまったっけ?」
にわかに流し台の上や下の扉を開け閉めする礼司に、大家のおばさんは笑っている。
「いやだわ。あんな容器返さなくていいのよ。使ってちょうだい」
「申し訳ございません。つい無精をしてしまって……でもじきに帰省するのでお料理は結構です。お気遣いなく」
など礼司が苦手とする世間話を見事にさばいてくれたのは龍平だった。
気のせいか音丸が部屋に居残るようになってから龍平はご機嫌で礼司の助けになることをいろいろやってくれている。
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