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第七章 1 合い鍵と思い出
第七章
1 合い鍵と思い出
ベッドで寝ていた音丸がトイレに起きたのに気づいたのは大家のおばさんが先だった。
「えっ?」という声に驚いて振り向けば、音丸が素っ裸のままトイレに行こうとしているのだった。台所の向かい側にあるトイレ、つまり大家が立っている玄関のすぐ横である。
「音丸さん、裸!」
おばさんの目から隠すように音丸に飛びついて、ベッドのタオルケットで身体を巻いてしまう。そして寝ぼけ眼をトイレに押し込む。
狭いワンルームなのにおばさんが音丸の存在に気づかなかったのは、不躾に室内を覗き込まなかったからである。お喋りではあるがその辺は良家の子女(おばさんだが)らしい品格があるのだった。
「まあ、お友だちがいらしてたのね。ごめんなさいねえ」
トイレから大々的に響く放尿音も聞こえないふりで謝るおばさんである。そうして出て来た音丸に「どうも」と笑顔で会釈をしながらかすかに怪訝そうな表情を浮かべた。
気づいたのは龍平である。「えっ、何?」と礼司は口に出してしまう。おばさんと音丸とついでに修理人にまで注目されてしまう。
「い、いや、独り言」
と大袈裟に手を振って、また音丸が身体に纏っているタオルケットを直してベッドに押し込むのだった。
凹んだ扉が新しい扉に付け替えられるのに小一時間もかからなかった。
「お騒がせしてごめんなさいね。お友だちもすみませんでしたね」
大家のおばさんと修理人が帰る頃には、お友だちこと音丸はまたベッドで深い眠りに落ちていた。
ピカピカのドアを眺めているうちに音丸用に合鍵を作ることを思いつく。ひやしんす商店街に合鍵屋があったはずである。音丸が眠っているうちに部屋を飛び出す。
ちうりっぷ商店街からひやしんす商店街に到る細道は何とかマスターしていた。迷わず辿り着き、合鍵を受け取って帰る頃には正午に近かった。
月光荘に戻りながら礼司はハーフパンツのポケットに入れた新たな合鍵に思いを致す。
今も音丸が持っている合鍵は、かつて中園龍平に渡された物だろう。龍平が死んだ後、夜中に一人ドアの鍵を開けて覗き込んだ何もない空間は音丸にとってどれほどの衝撃だったろう。胸の奥に深く暗い穴を穿ち、それは今に到るも塞がっていないように見える。
夜中に仕事から帰って来ると音丸はどんなに遅くとも玄関チャイムを鳴らすのだ。眠っている龍平(礼司ではない)を起こさない配慮がないわけではない。半分眠ったまま鍵を開ける龍平に「遅くなって悪かった」「夜中にすまない」と必ず謝っている。
けれど自分で合鍵を使うことはない。おそらくまたあの暗い深淵を覗き込みたくないのだろう。ならばこの新しい合鍵も渡す必要がないのでは?
ふと足を止めポケットに手を入れた礼司の横を通り過ぎたバイクがスピードを落として停車した。礼司に向かってバイクに跨ったライダーが手招きしている。この暑いのにフルフェイスヘルメットを被り長袖のライダージャケットを着ている。
こんな知り合いはいない。及び腰で近づく礼司に向かってライダーはヘルメットを脱いで顔を見せた。
「おーばさん、今日ドア交換に行ったろ?」
可音だった。いつもの丸メガネをかけていないから別人に見える。コンタクトレンズなのだろうが、礼司にはその見慣れない顔が妙に女っぽく見える。
「うん。もう帰ったよ。今、新しいドアの合鍵を作って……」
ポケットから合鍵を出してから借主が勝手に合鍵を作るのは不法だったと思いついて口をつぐんだ。だが可音は頓着せずに、
「急にごめん。せめて電話してから行くように言ったのに。おーばさん、せっかちだから」
「いや、こちらこそ返事を忘れてて、ごめん」
「よかったらまた飯食べに来なよ」
と誘われるのに頷く。大家のおばさんが日光荘に持って来る手作り総菜が大量過ぎて食べ切れないと愚痴をこぼす可音の顔を眺めているうちに、
「今日はコンタクトレンズなの?」
礼司は思惑とは全く別のことを訊いていた。可音は頷いたが、礼司が本当に訊きたいのは、
「あのさ……可音さんてブラジャーしてるよね?」
だった。言うに事欠いて自分は何を尋ねているのだ。不躾にも程がある。
だが可音は当然のように頷いてヘルメットを被るのだった。
「身体は女だからね。ブラ付けないと動きにくい」
「はあ……」不得要領で頷く礼司に、
「今度飯食いに来た時に話すよ。じゃあね」
あっさり言い残してバイクで走り去った。礼司は片手の指に合鍵のリングをぶら下げたまま呆然と立ち尽くしていた。
常見可音は女なのか⁉
呆然としたまま月光荘203号室に帰った礼司は、もっと驚くことになる。
「ただいま。合鍵を作って来たよ」
新しいドアを開けると音丸は机の下で膝を抱えて震えていた。いや長身だからとても机の下には入り込めないが、そうしたい気持ちがありありとわかる姿で縮こまっているのだ。顔色は紙のように真っ白だった。
「……どうしたの?」
近づいて肩を抱いたのは龍平である。小刻みに震える音丸の振動が腕に伝わって来る。
「松橋さん? ……龍平は?」
かすれ声で呟いている。音丸のきょろきょろ動く瞳は外を見ているのではなく心の内側を覗いているかのようである。
「起きたら誰もいない……龍平は? 龍平はもう帰らない?」
「I'm here」
龍平が起動した。
礼司はまた頭の隅に押しやられる。ようやく不安げな目の動きが止まった音丸を、何やかやと慰めているのは龍平である。
礼司は龍平の行動とは無関係にまた考えていた。つまり自分が音丸に対してやっているのは、その心を壊すに等しい行為なのではないかと。
もっとも礼司とて龍平によって自分自身を侵害されているのだが。
龍平が音丸をなだめて昼食の支度をさせる。冷凍庫の三角おにぎりを電子レンジで温めるのは龍平の役目である。音丸は鰹節で出汁をとって味噌汁を作り、副菜にトマトとインゲンのおひたしなども作っている。
音丸は何かしら手を動かしていると心の平安が保てるらしい。それは既に龍平が心得ている対処法のようだった。
礼司の頭には本来知るはずもない音丸に関する記憶や知識が詰まっている。いつの間にか龍平からインストールされたらしい。それを訝しがるより先に実践しているのだった。二人の関係を安定させるために。
前座修行で家事や料理を覚えた事実もそうだし、音丸が常に黒装束の理由も知っている。汚れが目立たないからである。旅仕事で着替えが足りなくなっても何とかなるらしい。
もう少し高尚な理由だと思っていたから少々興ざめではあるけれど。ちなみに靴下だけ白いのは、衣装の足袋を忘れた場合に代用になるからだという。
「少し呑まないか?」
音丸が缶ビールを開けて勧めるのに龍平は
静かに首を横に振る。
「僕はもうアルコールを受け付けない身体になったんだよ」
そう言い聞かせるのは初めてではない。
何しろ三角おにぎりの中に入っていた奈良漬けを知らずに頬張って泥酔したことがあるのだ。奈良漬け自体はほんのひと齧りしただけなのに。
その時は音丸に介抱されて、不埒にも甘い気分を味わったものである。以来音丸にも今の龍平は下戸だとインストールされたはずなのについ忘れてしまうらしい。昔のように二人で呑みたい気持ちが勝つのだろう。
昼食を済ませると音丸は早々に帰って行った。夜席の仕事に行くにはまだ早いが、明日から旅の仕事だから部屋で荷造りをするとのことだった。
「仕事が終わったら帰って来てよね。出発は明日の昼席の後でしょう? 今夜は一緒に寝てくれるよね」
せがむ龍平に音丸ははっきりとは答えなかった。少しばかりのアルコールと食事では胃は温まっても心はまだ強張ったままのようである。龍平が渡した合鍵をポケットに入れると部屋を出て行った。
礼司はそれから大分遅れて部屋を出た。おそらくかつて龍平もそうしていたであろうが、音丸とは行き先が同じでも決して共に歩かなかった。音丸が先に出て三十分程遅れて礼司は出かけるのだった。
音丸が同性愛者であること。恋人が男性であること。これは決して周囲に明かしてはならない。
ただでさえ旧弊な落語界なのだ。音丸は将来有望な二つ目と評価が高いのだ。性的指向が昇進の妨げにならないよう慎重に隠し通さねばならない。
龍平の言動が何かと気に障る礼司だが、こればかりは共感して協力するしかないのだった。
落語家という仕事は世間の人が休んでいる時が最も忙しい。年末年始やゴールデンウィーク夏休みなどである。
連日猛暑が続く季節になれば、音丸も夏休みの客を相手に落語をして回ることになる。
寄席はもちろん合間に地方巡業に回る。今回は九州に飛び佐賀、福岡、熊本と回って名古屋に寄ってから東京に戻り、七月の末廣亭での余一会 〝四派連合の会〟に出演する。
八月になれば、東北へと下る巡業である。これは礼司も既にチケットを入手しており仙台の実家から行くつもりである。
これまでのように部屋でのんびりいちゃついたり抱き合ったり出来る時季ではないのだ。それだけに今回音丸を混乱させて怖がらせたのは失敗だった……と思っているのは礼司ではなく龍平である。
音丸と再会して生前の関係に戻すまで気を使って少しずつ関係を縮めていたのに。今回のことと旅仕事とでまた二人の間が疎遠になってしまうと案じているようだった。
というか自分が妖の気持ちがわかるようになっているのが可笑しいような恐ろしいような気もする礼司なのだった。実に悲劇と喜劇は表裏一体である。
玄関扉が新しくなった月光荘に音丸は戻って来なかった。夜の落語会に出演後すぐに自宅に戻って荷造りをしたらしい。
次の日は新宿で寄席の昼席だった。音丸は二つ目枠の浅い時間帯に出て、そのまま羽田空港に向かったらしい。
寄席には例によってジジババ四人組が揃っていた。菅谷百合絵もいつもの上手中ほどの席にいたはずだが仲入りになる頃には姿を消していた。
赤毛の婆様が言うのだった。
「百合絵さんは、音丸さんが高座を下りたらすぐに出て行ったわよ」
ファンサイト〝音丸通信〟の主催Lilly である菅谷百合絵は早めに夏季休暇をとって九州公演を追っかけるらしい。四人組全員がレポートを楽しみにしているのだ。
「今日の夜中には佐賀公演の感想をアップしてくれるはずだ。待ち遠しいな」
「百合絵さんはやることが早いからな。名古屋までずっと追っかけるらしいぞ」
「若さにはかなわないわね。お仕事しながら遠征をして坂上珈琲の落語会も復活させて……」
「英語の会も再開するそうよ。若いお嬢さんは大したものよ」
などと噂するのを聞きながら、礼司も仲入りで寄席を出た。
ジジババは〝若い若い〟と賞賛するが、礼司にとって百合絵はもう〝おばさん〟の部類に入る。もっとも龍平はその意見に賛同しなかった。
「百合絵さんは音丸さんと同い年なんだよ。それが〝おばさん〟なら、音丸さんは〝おじさん〟じゃないか」
言われてみれば確かに音丸が〝おじさん〟ならあまり寝たくはないだろう。ともあれ、もう当分音丸とは寝られないのだった。五泊六日の旅仕事なのだから。
せめて旅立つ前にもう一度顔でも見せてくれればいいのに……。悄然と地下鉄駅に向かう礼司なのだった。
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