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第七章 2 空白の記憶
2 空白の記憶
うつむいて地下鉄の入り口に向かった礼司の目の前には、大きな黒いキャスター付きスーツケースが引かれて行く。小柄な女性が自分の腰より高いサイズのそれを持ち上げて地下鉄の階段を下りようとしていた。
「お手伝いします」と、とっさに手を出した。持ってから見ればそれは音丸が旅仕事に使っているスーツケースなのだった。龍平は既にわかっていたのだろうが、
「このスーツケースって……?」
と礼司は女性の顔を見てから妹弟子のたっぱだと気がついた。
「音丸あにさんから荷物を忘れたって電話があったんです」
「これを……楽屋に忘れた?」
礼司は階段を下り切ってスーツケースを返しながら尋ねる。たっぱは困ったように笑いながら頷いた。
「ウソみたいですよね。ザックだけ背負って出て行ったんですよ。羽田に行く電車の中で気がついたみたいです。私も後から行くからよかったけど」
「音丸さんてそんなに粗忽だったの?」
「まさか。あにさんが立前座だった頃はスーパーウルトラ前座と言われてたそうです。お席亭にも楽屋が上手く回ると信頼されていたのに。最近はどういうわけか……」
言いかけてたっぱは口を噤んだ。
「ありがとうございました。私はこちらですので失礼します」
と頭を下げると地下道をJR新宿駅に向かって歩いて行くのだった。何となくその後ろ姿を見送っているのは礼司ではなく龍平だった気がする。
新宿駅の地下道で礼司は月光荘に向かう地下鉄とは異なる方向に向かっていた。蜘蛛の巣のように複雑怪奇な都会の地下鉄で迷わずその路線に乗ったのは礼司ではなく内なる龍平の導きだった。
降りたのは小さな街だった。家賃が安く若者や芸人が住むことで知られる街である。
駅前を抜けるとまたも複雑怪奇な細道が続くのだが、礼司はそこを迷うことなく歩いて行く。
くねくねと曲がった路地の先にひどく古い木造アパートがあった。昭和初期ひょっとしたら終戦直後の建築かも知れない。心なしか建物自体が傾いている気もする。
恐る恐る玄関に足を踏み入れてみれば、何足もの靴が散らばっている。傍らには部屋番号の付いた下駄箱があるのは共同玄関のようだった。目の前には二階に上がる階段と奥に向かって走る廊下とがある。
下駄箱の反対側にあるガラス扉は開け放たれており、中から中華料理店のような鍋を振る威勢のいい音や美味しそうな香りが漂って来る。
「ごめんください! すいませーん!」
厨房らしきその部屋に向かって呼ばわると、中華料理店のコックのような太った前掛け姿の男が出て来た。
「勝手に上がるいいよ。どこの部屋来た?」
訛りのある言葉は本当に中国人のようだった。
「柏家音丸さんの部屋はどこですか?」
「柏家さん二階の二号室……」言いかけた中国人は礼司の顔をまじまじと見て相好を崩した。
「あんた、久しぶりね。音丸さんの友だちの人……ええと、ドラゴン……ちびドラゴンの龍平だ!」
「ああ、陳 さんでしたね。ご無沙汰しています」
調子よく応じる龍平だった。
礼司はといえば最近何故か自分がLINEにちびドラゴンのスタンプを使うのはそういうわけだったかと知るのだった。
二階の二号室に向かって階段を上がる。古い木造建築は手摺りは手垢でぴかぴかに黒光りして、すり減った床板は歩くたびにきしきし音が鳴る。
二階にも長い廊下が走っている。両脇に並ぶ扉は安っぽい引き戸で引手の下には鍵が付いている。防犯の役に立つかどうかはなはだ疑問な小さい鍵ではある。
202号室の前に立った礼司はまた雷に打たれたかのように全身が総毛立った。体内を熱い血潮が駆け巡り胸が高鳴る。初音製薬を訪れた時以上の衝撃である。
部屋の戸にそっと掌を当てると更に凄まじい衝撃が全身を襲った。たちまち礼司は理解した。ここが二人の初めての場所だったのだ。
この部屋で龍平と音丸は初めて口づけを交して抱き合った。
喧嘩別れをしたのもここだった。つきあい始めても連絡が密でない音丸に業を煮やした龍平が別れを告げたのだ。
敷居を挟んで六畳一間と廊下とに分かれて二人は睨み合っていた。一分が一時間にも思えるほどに凝縮された時間だった。
けれど結局は元の鞘に収まった。たぶんそれは寒い日に月光荘のあの部屋で焼酎のお湯割りを呑み、秘め初めをしたからだろう。
「龍平! ご飯食べて行く。こっち来る。美味しいの出来た!」
階下の厨房で陳さんが叫んでいる。
気がつけば礼司(龍平)は戸に両手を当てて嗚咽を洩らしていた。戸板にすがり付くようにして涙を流しているのだった。
翌朝、月光荘203号室で礼司は飛び起きるなりトイレに駆け込んだ。またも食べ過ぎである。嘔吐してしばし便器を抱くように腰を落として動けなかった。
音丸の住むアパートの共同炊事場で中国人コックの陳さんに本格中華料理を振舞われ、胃腸の限界を越えて食べてしまったのだ。勧められて断れない礼司の性格と、陳さんと思い出話にふけりたい龍平の希望とが合致した結果である。
這うようにしてベッドに戻る時、新しくなった玄関ドアがやたらに輝いて見えた。
「音丸さんずっといなかった。一緒に呑む人いなくて寂しかったよ」
陳さんは紹興酒を呑みながら、昨年ずっと音丸がアパートを空けていたと話すのだった。時々音丸の知り合いという若い男が見回りに来ては部屋の風を通していたという。
「ちびドラゴンも来ない。寂しかったよ」
言われて龍平は「ごめんごめん」と謝っていた。
何もここで龍平はとうに死んでいると明かす必要もないから、消化不良になるまで黙々と食べる礼司なのだった。
昨年の秋まで音丸が仕事を休んでいたことは礼司だけではなく、音丸ファンなら皆知っていることだった。わざわざ調べなくとも落語を聞きに行けば、
「ずっと休んでたのよ」「高座で絶句しちゃってねえ」「抜擢一人真打の噂が出た頃なのに」
金棒引きが囁き交す声が嫌でも耳に入るのだ。
だが休業中アパートを空けていたのは知らなかった。どこで養生していたのだろう。
胃腸薬を口に放り込みベッドに丸まってスマホで〝音丸通信〟を読む。
ジジババが期待していた通り、主催者Lilly こと菅谷百合絵は既に佐賀公演のレポートを挙げていた。
たっぱは音丸に遅れて佐賀入りして衣装の入ったスーツケースを届けたのだろう。音丸は無事に新たな衣装で佐賀の高座を務めたらしい。
《佐賀市文化会館中ホールで行われた音羽亭弦蔵 ・柏家音丸二人会である。
開口一番は音丸の妹弟子たっぱである。演目は以下の通り。
平林 たっぱ
夏泥 弦蔵
普段の袴 音丸
仲入り
替り目 音丸
寝床 弦蔵
これまでも二つ目の音丸が真打の弦蔵師匠の胸を借りる会は多かった。気の合う二人の共演は思わぬ相乗効果を生み、観客に予想外の楽しさを与えてくれた。
南国九州を舞台に落語家協会の武闘派弦蔵師匠と眠れる獅子音丸の対決である。期待するなと言う方が無理である。
だが私Lillyは今回ばかりは一抹の不安を抱かずにはいられなかった。
昨年の高座復帰以来音丸は地方公演も精力的に行っている。休業以前よりはるかに多くの高座数をこなしている。
あの悪夢のような彼の傷ましい姿を見ることはもう二度とあるまい。心身ともに健やかに復活した充実の高座を見せてくれるに違いない。そう信ずるに足る活気溢れる昨今の音丸である。
それでもなお私が不安をぬぐえなかったのは、音丸が福岡出身だからである。今回の九州ツアーは二日に渡って福岡公演がある。それを控えての佐賀公演である。
誰しも故郷に対しては複雑な感情があろう。まして復帰以来初の来九である。緊張で高座をしくじるのではないか。
だがそれは私の杞憂に過ぎなかった。
ベテランと新鋭とが鎬を削る圧巻の高座であった。
佐賀の夜は爆笑に熱く燃えたのだった。》
だらだらとベッドに寝転がって〝音丸通信〟を何年も前まで遡って読む。
机の下で一人膝を抱えていた蒼白な顔を思い起こせば休業前の音丸がどれほど傷心の極みにあったか容易に想像できる。
一昨年の十月に中園龍平が亡くなったのだ。音丸は遅れて十二月にそれを知る。ずっと単なる失恋だと思い込んでいたのだ。消えた龍平の行方を捜しもしなかった。どれだけ自分を責めたことだろう。
明けて正月興行までは何とか持ちこたえた。けれど春の兆しと共に心は弱り、とうとう休業したのが三月に入ってからだった。
そのきっかけは高座で台詞が飛んで絶句してしまったことらしい。嫌でも耳に入る〝期待の二つ目の醜態〟ではあった。だがファンサイトではその辺には一切触れていない。
《今年は音丸さんの〝船徳〟も〝長屋の花見〟も聞けなかった。充分な休養を望む反面、早い復活を願ったりもする。ファンと誠に勝手なものである。》
と百合絵は綴っている。
そして半年後、九月下席から音丸は寄席に戻って来た。
《音丸さんの復帰は〝目黒のさんま〟からだった。〝禁酒番屋〟〝湯屋番〟〝干物箱〟と軽妙な噺が続く。》
行間に喜びが溢れる百合絵の筆致である。
ちなみに百合絵自身も落語会の主催をしている。
今年になって復活したのがあの坂上珈琲店の勉強会である。礼司が行ったのは再開後二回目なのだった。道理で公演後も客達が音丸を取り囲んで帰らなかったはずである。おそらく皆久しぶりに音丸と身近に接したのだろう。
他にもかつて恒例だった落語会を次々と再開しているらしい。今こそ柏家音丸は落語に全力を注ぐべき時なのだが。その辺を妖 は理解しているのかと礼司は案ずるばかりである。
ちなみに休業中に音丸がどこで何をしていたのか百合絵ははっきりと記していない。ジジババ四人組も知らないらしい。福岡の実家で過ごしたのかと推測するも、百合絵の書きっぷりでは音丸は故郷に対して何やら一物あるらしい。
実家が心休まる場所ではない人間も確かにいるのだ。
〝音丸通信〟や落語に関するサイトを虱潰しに読んでいると、にわかに電話が鳴った。仙台の実家に暮らす姉からである。
「何? どうしたの」
あわてて礼司が出たのは、姉が電話を寄越すなど珍しいからである。家族に何か不吉なことでもあったのかとうろたえたが、
「礼司。あんたいつ帰省するの?」
と、どうでもいい質問だった。LINEメッセージで何度も同じ質問をしたのに完全にスルーするから電話したと怒っているのだった。
「八月には帰るよ」
適当に答えて電話を切った。
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