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第七章 3 夏休みの課題

3 夏休みの課題  別にスルーしたのは姉のメッセージばかりではない(威張ることでもないが)。  礼司にとってスマホはもはやコミュニケーション・ツールではなくなっていた。たった今まで〝音丸通信〟を精読していたように、音丸や落語の情報を得るための道具でしかなかった。  改めてLINEを確認すればメッセージが山のように溜まっているのだった。  さすがに反省して溜まりに溜まったメッセージに既読をつける。  何より多いのは関裕奈からの連絡だった。  すっかり忘れていたが裕奈は礼司の恋人なのだった。  やれ夏休み中に裕奈の実家に遊びに来ないか、礼司が仙台に帰省するならついて行きたいのと言って来るのも当然である。  もっと忘れていたが礼司は裕奈にプロポーズまでしていたのだから。  そしてヒストリア・グルニエのグループLINEでは夏イベントはどうするか、有田津久志の新盆には行くのかと問いが続くに及んで、さすがに(あやかし)と共に浮世離れしするのも大概にしないと……と我に返るのだった。  都心にしては緑の多いキャンパスだが蝉の声は少なかった。猛暑のあまり蝉も鳴き疲れているのか。  久しぶりに礼司は月光荘を離れ地下鉄に乗って大学までやって来た。ただ歩くだけでも汗がだらだら流れるのに閉口する。  夏休みのキャンパスに人気はないが部室棟に入ると、どこからともなく合唱の声なども聞こえて来る。  ヒストリア・グルニエの扉を開けると、集会日を忘れずに数人の学生が集っているのだった。仲間の顔を見て、ああ自分は学生だったのだと今更思い出す。  大学に来なくなったのは音丸が月光荘に居残りになったせいもあるが、実は部室で改めて有田の不在を実感したくなかったせいもある。  だが部室に来てみればさして落胆しない自分がいるのだった。そして裕奈がやって来て、 「元気だった?」  と顔を覗き込まれても平気でにっこり笑えることにも驚くのだった。  以前のような忌々しい気分にはならない。自分にも愛する者が出来たから、裕奈に無駄に愛を押し付けられても苛立たない……と考えて少しばかり後ろめたく思う。サークル公認の彼女に対してこの感慨はないだろう。  既に実家に帰省している部員も多かったから、この日は夏のイベントについての確認に過ぎなかった。  礼司の元に山のように届いたメッセージの中には、春の東京お江戸歴史散歩のような新たな夏イベントを考えて欲しいとの要望も多かった。  けれど礼司がスルーしている間に例年のように七月に入るなり高尾山ビアマウントで暑気払いを済ませ、八月初旬の軽井沢でのテニス合宿も受付は済んでいるようだった。 「ただ今年は八月に有田の実家で新盆がある。ご両親からもぜひ来て欲しいと言われてるんだ。希望者を募って出かけたい」  と部長が言うのだった。  賛同者が手を挙げて、八月のお盆に山梨県に行くことが決まった。  帰りに裕奈に誘われてファミリーレストランに行った。  二人で向き合ってお茶を飲みながら礼司には裕奈に話せることは殆どなかった。汗で湿ったTシャツが冷房の効いた店内で背中を冷やすばかりである。せいぜいが月光荘の扉が凹んでいたのを新しい物に交換してもらったなどと話すぐらいだった。 「じゃあ今度新しいドアを見に行くね」と言い出すかと思いきや裕奈は楽しそうに話を聞いているだけだった。  そして礼司がドリンクバーに行って戻って来ると、裕奈は居住まいを正して言うのだった。 「何度もLINEしたけど返事がなくて遅くなっちゃったけど……私、好きな人が出来たんだ」 「……はあ」 「通学の電車でよく話す人で、うちの大学じゃなく別の大学の人。告白されてそれで、つきあってるんだ」 「……へえ」 「礼司くんにきちんと話してから、彼とつきあいたかったんだけど。全然連絡とれないし……だからもう……」 「もうヤッたんだ?」と思ったけれど口に出さない程度の慎みはあった。 「そうだね」とか「仕方がないね」とか相槌を打っては店を出る。 「僕こそ裕奈に寂しい思いばかりさせていたね。悪かったと思ってる。その彼氏とならきっと幸せになれるよ。だって裕奈、前よりずっと綺麗になっているもの」  などと見事なきれいごとを言っているのは龍平だった。プロポーズまでした奴が別れの挨拶をするのは当然だと思って知らんふりしている礼司だった。  裕奈は目に涙を浮かべて「ごめんね」や「ありがとう」を繰り返しながら一人で帰って行った。その背中を見送りながら礼司は少しばかり肩の荷が軽くなった気分だった。  少なくとも今後は音丸と龍平の事だけに専念できる。いや、何をどう専念するのかわからないが。(あやかし)に憑りつかれた面倒臭い立場に関裕奈を巻き込まずに済むと、少しは殊勝なことを思っていた。  帰りの地下鉄で可音に連絡して日光荘に寄ることにした。ひやしんす商店街で酒屋に入ったのは、他人の家を訪ねるのに手ぶらは失礼と今更気がついたのだ。  以前、可音が呑んでいたのと同じワインを買おうとして、とんでもない値段に腰を抜かしそうになる。店員に勧められた夏場に冷やして呑めるというスパークリングワインと自分用に単なる炭酸水も買う。  思い出したのは日光荘101号室、管理人室のチャイムを鳴らした後だった。可音は女ではなかったか? 男の身で一人暮らしの女性の部屋を尋ねるのは失礼ではないのか?  だが可音はドアを開けるなり「どうぞ」と屈託なく言って室内に取って返すのだった。礼司はおずおずと玄関を上がる。 「助かったよ。ちょうど昨日おーばさんが大量に素麺を茹でて来て。まだ残ってるんだ」  可音は今まで描いていたらしいテーブルの絵や画材を例によってワイルドに片付けている。  そして冷蔵庫からB4サイズはあろうかという密封容器を出して開けて見せるのだった。  大きな四角い箱の中に饅頭サイズにくるくる巻かれた白い素麺の渦巻が何個も詰まっている。傍らの小さな密封容器には薬味や海苔が入っており瓶入りのストレート麺つゆまで添えられて至れり尽くせりである。  だがその横に出されたのは紙皿に紙コップそして割り箸なのだ。 「すごいね」とりあえず礼司は言ったものの、何がどうすごいのかはわからない。  他にも精進揚げだの茄子の浅漬けだのいろいろ出されたのだが、まずは素麺に箸をつけてみた。食欲と言うより単なる好奇心だった。箸は一つの渦巻を摘んだはずだが箱に詰まった他の麺も持ち上げている。全ての麺が密着しているらしい。可音も箸で押さえて何とか一巻き分だけ紙コップに詰め込んで麺つゆでほぐして啜る。 「……ふやけてるけど素麺だな」  と頷く。啜るうちに切れてしまい結局渦巻きごと口に押し込むのだった。  可音は箸で一巻きを紙コップに入れたものの食べはせず、礼司が持って来たスパークリングワインを別の紙コップに注いで水のようにごくごく吞んでいる。  礼司は関裕奈と別れた話をぽつぽつする。話しながらよく見ればやはり可音のTシャツの下にはブラジャーの線が透けているのだった。  可音が指先で襟元を摘んではたはたと風を送りながら、 「面倒なんだよ。身体が女だと」  そう言うのは礼司の視線に気づいているようだった。 「ごめん」と思わず知らず目を伏せる。 「幽霊はすぐに気がついたよ」  丸メガネの下の瞳がまっすぐ礼司を見つめていた。 「中園龍平の幽霊?」  可音は頷きながらまたワインを呑んだ。 「幽霊は同性愛者を探してるって言うし。こっちは女の子が好きで。レズビアンだから同性愛者だろって言ったら、いや異性愛者だって言われた」 「……可音さんは異性愛者なの? て、つまりもともとは男性だったとか?」  可音はおかっぱ頭の髪を揺らして首を横に振る。 「生まれた時から女だよ。身体はね。ただずっと自分は男だと思ってた。何でか知らないけど、身体の方が間違ってると感じてた」 「身体が……間違ってる?」  可音が頷くとまた髪がさらさら揺れる。 「そういうのをトランスジェンダーと言うんだって。幽霊が言ってたよ」 「はあぁ……」 「心が男で女が好きなら同性愛じゃなくて。ちゃんと異性愛者らしい」 「へえぇ……」  またしても礼司は間抜けな相槌を打つばかりである。 「そんなの生まれて初めて言われたよ。ほっとしたと言うか……自分はこれでいいんだとやっと思えた」  しみじみ語る可音に礼司も思わず頷いてしまう。龍平に散々抱かれて言い聞かされたのだ。 「君は完全なるゲイだよ。バイセクシャルでもない。女じゃ全然勃たないでしょう?」  あの調子で妖は可音にも性認識を教え込んだのか。いやもちろんセックス抜きで。  礼司は思わずカミングアウトしてしまう。 「俺さ、ほんとはゲイなんだ。やっぱりあいつに言われて、そうなんだと納得した」  可音はさほど驚かず頷きながら最後のスパークリングワインを紙コップに注ぎ足している。 「あいつはやっと真正のゲイに出会ったわけか」 「いや、真正のゲイって……」  礼司は笑っているが、とうとう可音に全てを明かしてしまったと空恐ろしい気分になっている。同時にこの上もない解放感も感じていたのだが。 「あいつは松橋さんに憑りついて何をするつもりなのかな?」  その問いは当然なのだが、さすがに生前の恋人柏家音丸とセックスするためとは明かせない。「何なのかな?」などと首をかしげるしかなかった。  可音は特に答えを求めることなく紙コップを飲み干すと席を立った。冷蔵庫からまた高価そうな赤ワインを取り出すと、景気のいい音をたててコルクを抜いた。  そうして礼司の前にはまたフルーツゼリーを何個も転がすのだった。今度は新宿高野の贈答品だった。

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