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第七章 4 行ったり来たり

4 行ったり来たり  可音と伸びた素麺の昼食をとった翌日、何故か礼司は仙台の実家に旅立っていた。  自分でも意味不明だった。日が暮れるまで可音の部屋で過ごして、B4サイズの容器いっぱいだった素麺を半分ほどに減らして月光荘に帰ったのだった。  そして部屋に入るなりザックを出して帰省の荷物を詰め込んだ。どうせ衣類は実家に残っているのだ。思いつく物を適当に放り込み、スマホで新幹線のチケットも予約して翌朝家を出ていたのだった。 〈昨日はソーメンごちそうさま。これから仙台の実家に帰る。しばらく部屋を空けるのでよろしく〉  東北新幹線の車中で可音にそうメッセージを送った。図らずも大家のおばさんに言われたように、アパートに関することを可音に伝えるようになっているのだった。 「帰るなら帰るってちゃんと言いなさいよ」  仕事から帰るなり家の中に礼司の姿を見つけた姉は不満そうに言うのだった。もっとも五才年上の姉は常に礼司に偉そうな物言いをするのだが。 「それならもっと早く申し込んだのに……」  とぶつくさ言うのは、自分もかつて在籍していた司法試験対策の私塾に礼司を入れるつもりなのだ。夏期講習に出て気に入れば正式に入塾すればいいと言ってはいるが、一度入ればそのまま試験合格まで押し込められるのは目に見えていた。  ご馳走が並んだ夕食の席で、姉の思惑に父も母も異を唱えず、何なら笑顔で頷いているのだった。  松橋家では長男も司法試験を受けて法曹の仕事に就くのが当然と家族一同思い込んでいるらしい。父も姉も斯界で働いているのだから(母は特に資格はないが結婚するまで市役所勤務だったという)。  一人首をかしげて佇んでいるのは当の礼司だけである。とはいえ他に取り立てて将来の夢も希望もないのだ。基本真面目な性格だから、首をかしげながらも勉強をしているうちに今の大学の法学部に合格して通っているのだった。 「じゃあ、塾の先生に明日から弟が行くって連絡しとくね」  と食卓で姉は当たり前のようにLINEをしていた。  かくして帰省した翌日から礼司は仙台駅前のマンションにある私塾の夏期講習に通っているのだった。  ちなみにこの日の夕食は沖縄料理がメインだった。最近母が凝っているとのことで豚肉オンリーである。この家の女性陣は肉々しい料理が大好きなのだ。そして成年男子はすべからく肉をがっつり食べると思い込んでいるから、帰ったばかりの礼司の前に山盛りのラフテーやテビチを出して来るのだ。  さすがに実家では遠慮なく嫌いな物には手を出さないから翌朝悲惨な目に遭うことは少ない。この夜礼司が主に食べたのは、海ぶどうや人参しりしりなのだった(誰が豚の足など食うか!)。  豚肉料理の大半は女性陣が平らげる。松橋家の男性陣は揃って胃弱気味なのだった。  実家の二階には姉と礼司の寝室が並んでいる。上京して既に三年もたつのに礼司の部屋は高校生の頃のままだった。突然帰ったのに塵ひとつなく、ベッドを覆った布を外せばすぐに寝られる状態だった。実家に多少の不満はあれど母の心配りはありがたいことだった。  箪笥の中から昔のTシャツや短パンを引っ張り出して着替えるとベッドに大の字になる。中園龍平ならダサいと散々文句を言いそうなワードローブばかりだが、衿元袖口がよれよれになった綿シャツの方がいっそ肌にも心地よいのだった。  帰省した当初はさすがに仙台は涼しいと思ったが、数日もすれば猛暑は東京と大差ないと思い知る。  日中は家に居るのは母と礼司だけである。ランチは階下のダイニングキッチンに下りれば、冷やし中華や素麺などを母が用意してくれている。  暑さも極まる昼下がりには冷房の効いた自室でガリガリ君などを齧りながら〝音丸通信〟で百合絵の九州公演レポートを読んだり、音丸の動画を見たりする。  そうしているうちに何故自分がにわかに帰省したのか理解する。どうせ東京にいても音丸に直接会うことは叶わないのだ。こうして映像を見るだけなら、上げ膳据え膳でコンビニに走らずとも階下の冷蔵庫に箱入りのガリガリ君が詰まっている実家にいる方が快適なのだった。一人暮らしを始めて実感したことではある。  駅前マンションの私塾に出かけるのは面倒だったが、司法試験に関しては受ける方向に気持ちは傾いていた。落ちたらその後の進路を考えればいいのだ。  だが大して勉強もしないのに礼司は私塾で行われる小テストで優秀な成績を上げている。中園龍平の力添えだった。  関裕奈とつきあっていた頃、理想の彼氏を演じてくれたのも憑依している礼司に対する謝意だったのかも知れない。そして今も大学や私塾でも明らかに礼司より優れた知能を発揮して好成績の手助けをしてくれている。  あれでなかなか義理堅い男、いや(あやかし)なのだとわかって来た。柏家音丸とつつがなく交際している限り礼司にとって有利なように動いてくれているのだ。  とはいえ恋敵でもあるのだ。音丸は二人きりの時は礼司を「龍平」と呼ぶ。百合絵やジジババなど他人がいれば「松橋さん」である。決して「礼司」と呼ぶことはない。改めて思い起こせば悲しいような切ないような気分に捕われるのだった。  七月末日。仙台から都内に取って返したのは、新宿末廣亭の余一会(よいちかい)を見るためである。このところアルバイトもしていないから小遣いは不足気味である。 「またヅカ遠征につきあうからさ。少しだけ貸してよ」  姉に頼むなり即座に言い返される。 「恩着せがましく言わないでよね。チケット代も遠征費用も私が出してるんだよ?」 「次は俺が出すからさ。今だけ、東京に帰る交通費だけ貸してよ」 「お父さんやお母さんに言えば?」 「それが嫌だから頼んでるんじゃないか」とまでは言えずに口をもぐもぐさせる。  実のところ松橋家はそう貧しいわけではない。常見家ほどの富豪ではないが頼めば上京費用 など出してくれるだろう。仕送りも毎月滞ることなく決まった額が礼司の口座に振り込まれている。小学生の時にお年玉を貯金するために作ってもらった口座である。  これまでは貯金が底をつくことなどなかったが、落語というか音丸にはまってから金は次々と消えて行く。お年玉の定期預金を崩すのは気が進まない。かといって親にせびるのも潔しとしない。結果姉にすがったわけだが、渋々出してくれたのは新幹線代ではなくバス代だった。 「いや、高速バスって……」  呟いた途端にじろりと睨み付けられる。  夜中に仙台バスターミナルを出発する高速バスはなかなかきつかった。揺れるバスの座席で眠っても悪夢に目覚めたりする。  じめじめした地下鉄駅から地上に向かって裸足で階段を駆けあがっている。有田津久志が亡くなった当初よく見た悪夢である。電車の轟音の奥にツクツクの悲鳴まで聞こえるような気がするのだった。  息も止まらんばかりに驚いて目を覚ませば、車内の冷房で身体は冷え切っている。Tシャツに短パンなどという動きやすい薄着で来たから尚更である。  (あやかし)は礼司の服装に不満たらたらだった。中園龍平基準では東京に戻るならスーツにネクタイの正装が当然らしかった。悪夢にうなされるのも妖の悪意ではないかと思ったりする。  中途半端な睡眠をとっているうちに、六時間近くかけて明け方に新宿バスタに到着した。  そこから月光荘に向かうはずが乗った地下鉄は正反対の方向だった。殆ど始発である。数える程しか乗客のいない電車を降りて、夜明けの白々した住宅街の曲がりくねった路地を歩いて行く。無事あの木造アパートに着いて礼司は自分がもはや方向音痴ではないことに気づくのだった。  朝には無用な玄関灯が灯ったままの玄関を入るとタイルの土間で靴を脱ぐ。それを202号室の靴箱に押し込み、そっと階段を上がって行く。きしきしと鳴る廊下を静かに進んで部屋の前に辿り着く。  どこか遠くから地鳴りのように聞こえるのは男の鼾である。けれど202号室は静まり返っている。礼司は試しに取っ手に手を掛けて引き戸を引いてみる。施錠はしてなかった。  細く開けた扉の隙間から、懐かしい香りが漂って来る。匂い袋の香りと音丸自身の体臭とが入り混じった得も言われぬ典雅な香り。もう少し隙間を空けて室内に入り込む。そして引き戸を閉めるとねじ式の錠をしっかり絞めた。  六畳間の入り口には風呂敷を敷いた上に大きな黒いスーツケースが置いてある。たっぱが九州公演まで運んで行き、音丸が九州、名古屋と引いて昨夜遅くに(たぶん)帰って来た荷物である。  戸の向かい側には腰高の窓がある。すりガラスはあるもののカーテンもない。ただカーテンレールにハンガーが並び、着物や襦袢が広げて干してある。汗を乾かしているのだろう。  窓の上に旧式のエアコンがあるのだが、稼働しているわりには室内は蒸し暑さが籠っている。  室内にある家具といえばまるで嫁入り道具のような立派な桐ダンスと衣桁に姿見ばかり(折り畳みの食卓が畳んで壁に立てかけてあるのも一応は家具だが)。  以前〝音丸通信〟でレポートしていたが、中の着物を合算すればこの安アパート一棟を軽く借り上げられる程の金額らしい。噺家の中には高座着など安価な洗える着物で済ませる者もいるのに、音丸は本物を揃えたいと稼ぎの大半を着物に注ぎ込んでいるのだ。  そして壁際に落語関係の本やCDなどが積み重ねてある。何ならカセットデッキやカセットテープなどという古代遺物まである。これまた好事家にとっては貴重で高価な資料らしい。そうは見えない収納具合だが。  そうして部屋の中央に延べた布団には細長い身体が横たわっていた。パジャマ代わりに着ているのも黒いTシャツである。静かに上下する胸を見つめてから、そっと横に身体を横たえる。  猥褻行為など働かない。ただ久しぶりの香りに包まれたいだけなのだ。それでなくともバスでは寝不足だった。にたにたと頬が緩むのも抑えられずに、そっと音丸に寄り添って目を閉じるのだった。 「お帰りなさい」  と耳元で囁けば「んん」と呻って片手で頭を抱えられる。パーマをかけた髪の中に細い指を差し込まれれば全身が悦びに総毛立つ。  半分寝ぼけて音丸が身体に覆いかぶさる。その重みが嬉しくて力一杯抱き着いてしまう。とどのつまりが互いに夢うつつで愛の営みが始まるのだった。  

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