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第8章 1 夢の酒

第8章 1 夢の酒  落語をイントロクイズのように聞くマニアがいる。落語家のマクラや噺の最初の一言で演目を当てるのだ。 たとえば「あなた、起きてください」と妻の言葉で始まれば、たちまちいくつかの演目が上がる。 〝芝浜(しばはま)〟〝天狗裁(てんぐさば)き〟そして〝夢の酒〟または〝橋場(はしば)の雪〟 「起きて仕事に行ってください」と続けば〝芝浜〟に決定である。  礼司はそんなクイズをするつもりもないが、音丸がマクラから、 「あなた、起きてください」  の台詞に入った途端に内心ガッツポーズをとってしまった。 〝夢の酒〟である。  そもそも音丸は〝芝浜〟も〝橋場の雪〟も持っていない(レパートリーにない)。〝天狗裁き〟は持ってはいるが、今夜は必ず〝夢の酒〟をやるはずだった。何となれば龍平がまた駄々をこねたのだ。  昨夜遅くに名古屋から戻って来た音丸だが、今日の仕事は新宿末廣亭の余一会(よいちかい)、夜席だけだった。忍び込んで来た礼司と共に朝からたっぷり愛を交す時間はあった。  とはいえ安普請のアパートは各部屋の物音を逐一外に漏らしてしまう。どこぞの部屋で男女の営みがあれば物音は各部屋に伝わる。男同士でも大差はない。 だからこれまで二人が愛し合うのはまだしも造りが丈夫な月光荘、つまり龍平の部屋と決まっていた。  だが今回はあの六畳間で半分寝ながら事に及んでしまったのだ。朝から昼まであられもない嬌声を上げていたのが男女ではないことはアパート中にばれていたに違いない。  礼司は必死で声を堪えようとするが音丸は構わず愛撫を繰り返す。龍平もお構いなしに息が上がるまで喘いでいる。  気がつけば礼司の心はまたしても天井の隅から二人を見下ろしているのだった。龍平だけに身を占拠されたきっかけはわかっている。  布団にうつ伏せになった龍平は背後から音丸に攻め立てられて、 「ああン、音丸さん……いいっ、感じる、もっ、もっと、もっとお!」  ここを先途と嬌声をあげていた。  悶えながら枕元から手を伸ばして枕元に置いてあった紐(長襦袢を着る時に絞める紐らしい)を引き寄せて自分の首に巻いたのだ。何やら新しいプレイを思いついたようだった。 「これ……引いて」  と音丸の手に両端を握らせた。音丸は戸惑いながらも興奮でつい握った紐に力が入る。途端に龍平の喉からひゅっと鋭い息が漏れた。  そして礼司の意識は身体から弾き飛ばされた。 「あっ!」と思った時には、和室の薄暗い天井の隅から下を見下ろしているのだった。 龍平が四肢を痙攣させて悶えているのは苦痛なのか快感なのかもはや礼司の知るところではない。ただ重なった音丸も同調するように激しく動いている。その勢いで引く手にも力が籠っている。 「あッ! いいっ、龍平……あ、いっ、龍……いうっ、うう、龍平!」  頂点に達して背筋を大きく震わせた音丸である。  天井にいる礼司にも龍平の喉が「ケッ」と変な音をたてたのがわかった。いや、あれは自分の身体である。首は大丈夫なのか⁉  だが首を引かれて上向いた龍平の顔には苦悶と愉悦とが同時に表れている。歯を食い縛った口からは、金切り声に近い嬌声が漏れている。 「ヒィ、キイイッ! ……イ、イッ、イイィーーッ‼」  肉体は射精などとうに過ぎて透明な聖水のように潮を放っている。  礼司は我が身が白目を剝かんばかりにして口から泡を吹いて痙攣している様を呆然と眺めるのだった。  もしこれが魂込みの肉体で見たならばアダルトビデオよろしく大いに興奮したろうが、魂だけの礼司には面白くも何ともない。ただ我が肉体が達者かそれだけが心配である。  音丸は力尽きて龍平の上に覆いかぶさっている。  首に紐を巻き付けたまま、寝返りを打った龍平の顔は夢見るような瞳である。至福の微笑みを浮かべて音丸を見上げている。 「音丸さん……」 「大丈夫か、龍平? すまん、つい力が入って……龍平?」 こんな時、音丸は決して「松橋さん」と呼ぶことはない。まして「礼司」をや。 「龍平……龍平」  口の中で甘い飴でも転がすように呟いては、首の紐をそっと外している。そして赤く鬱血した肌を何度も優しく撫でている。  礼司は嫉妬で気も狂わんばかりである。  眼下では満ち足りた二人がそっと身体を寄せ合っている。  あの至福の快楽を堪能するのは自分のはずなのだ。  なのに何故こんな薄暗い天井に地縛霊よろしくわだかまっているのか。  礼司の口惜しさは限りない。  あれは自分の身体なのに‼ 「もうこんな時間か……」  音丸が龍平から離れたのは正午も過ぎた頃だった。天井の角にいた礼司の心も気づけば肉体に戻っていた。 「ここってお昼のチャイムとか鳴らないんだね」 「夕方は、五時に夕焼け小焼けが流れるぞ」 などと言いながら音丸は水で濡らして硬く絞った手拭いで礼司の肌を丁寧に拭いている。 「跡が付いたな」  と首に巻いた紐の後が赤くなっているところを何度も優しく拭いている。 「heaven……天国みたいだった。今度、音丸さんもやってみない? めっちゃ感じるよ」  礼司はようやく戻った肉体感覚に内心歓喜して、手拭いごと音丸の手を握っている。そして指の一本ずつを口に含んでは「こら。拭けないだろう」と嗜められている。礼司は愛らしい上目遣いで一重の瞳を見上げる龍平の仕草も完全にマスターしている。 「ごめんね。僕また布団を汚しちゃったね。新しいのを買うね」 〝また〟とは何なんだ? 新しい布団を買うのはこっちだぞ。  この際、礼司は龍平の一言一句が気に入らない。  龍平は手拭いを取って音丸の身体をゆっくり拭いている。背中に覆いかぶさるようにして音丸の耳の下に唇を寄せてしまう。甘く舌で舐めてから強く吸ったが、 「そこはよせ」  すかさず手で耳の下を隠す音丸である。それを払ってがぶりと強く嚙みついた。間髪入れずに身体を付き飛ばされる。礼司の背中がぶつかって箪笥のかんが一斉にちゃりちゃりと鳴る。 「何考えてんだ? 外から見えるだろう」  まだ手で耳の下を庇いながら音丸は礼司を睨みつけている。 「何で僕はやっちゃダメなの?」 「高座で見苦しいだろう。着物の外に出る部分には付けるな」  そう言っている音丸の肩や胸や腕にも盛大に赤い跡が付いているのだ。龍平が興奮が募る度に噛みついたり吸ったりしたものである。 「じゃあさ……」  礼司というか龍平は音丸の首っ玉に両手を回して裸の胸をひたと合わせた。 「今日の余一会であれやって。あの噺……僕が好きなやつ」 「何だっけ?」  とぼけながらそそくさと黒いTシャツを着る音丸である。これ以上痕を付けてくれるなと宣言しているかのように、黒いデニムも履いてしまう。 「〝夢の酒〟だよ。今日は〝夢の酒〟をやってよ」 「……無理だな」 「何でよ?」  渋々服を着ながら尋ねる龍平に音丸ははっきりした答えは言わなかった。稽古をしていないの、今夜やる噺の候補は既に決まってるのと、言葉を濁すばかりである。  箪笥の小引き出しから何枚か色の違う手拭いを出して礼司の顔に当ててみて「これだな」とコーラルピンクの手拭いを広げた。和風に言えば珊瑚色の地に白い大小あられが散っている。  白抜きの寄席文字で漢字が描かれているが礼司には読めない。  音丸は手拭いを広げるとスカーフのように礼司の首に巻きつけて締めた跡を隠すのだった。  龍平は満更でもない顔で姿見に自分の姿を写している。そしてまた音丸の肩に両手を掛けて、 「ねえねえねえ。音丸さん〝夢の酒〟やってくれるよね? 僕はキスマークを我慢してるんだもん」  などと掻き口説いている。  礼司はといえば別のことを考えていた。  そもそもこいつが自分に憑りついたのは何故なんだ?  同性愛者だから?  こうして音丸と肉体的に愛し合うため……なのか?  一体、龍平が求めているのは何なのか? 「だから僕が求めているのは音丸さんの〝夢の酒〟だよ!」  途端に叫ぶ龍平である。 「前に浅草で聞いたろう」 「あの時は僕まだ聞く準備がちゃんと出来てなかったもん。今日は最初から最後までベストコンディションで聞きたいんだよ。ねえねえねえ!」 「無理だって」  そんなやりとりの後、例によって別々にアパートを出た。礼司はいったん月光荘に寄って龍平が納得する服装に着替えてから新宿末廣亭にやって来たのだった。  四派の落語家の中で音丸だけが二つ目である。当然出番は開口一番である。そこで〝夢の酒〟の冒頭を聞いたのだから龍平が内心ガッツポーズをとるのは当然である。  あれほど渋っていたのに音丸は〝夢の酒〟をやってくれた。龍平のために(礼司のためではない)。

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