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第8章 2 すべからく歴史は知らぬが仏

2 すべからく歴史は知らぬが仏 〝夢の酒〟という落語は新婚夫婦の犬も食わない仲違いの噺である。  大店の若旦那がうたた寝しているのを新妻が、 「あなた、起きてくださいな」  と起こすのが発端である。  夢を見ていた若旦那は新妻にせがまれてその内容を話してしまう。 初めて会う色っぽいご婦人に招かれて家に上がると酒をご馳走になり、やがて酔ってご婦人とお床入り……という艶夢を馬鹿正直に話してしまう。もちろん新妻は聞くなり大泣きして、声を聞きつけた舅が飛んで来て仲裁に入り……といった内容なのだが。  音丸の新妻は、若旦那に夢の話をせがむのに「ねえねえねえ」と言っている。 「あなた教えてくださいな。私、聞きたいですわ」  これは龍平の物言いではないか。  気をつけて聞いていれば、新妻の話し方や言葉の癖は完全に龍平の再現である。  聞けば聞くほど口惜しさに頭が煮え立つ思いである。  こいつら高座の上でもいちゃいちゃしやがって!   今回礼司の席は最前列である。こんな真正面で高座の音丸を見上げるのは初めてである。いの一番に予約をした甲斐があったと胸を弾ませたものである。  高座に出て来た音丸はお辞儀をして頭を上げる際、まっすぐ礼司の目を見つめたのだ。その眼差しに胸を射ぬかれたものである。  ドキュン!   漫画のような擬音を聞いた気さえした。思わず両手を胸に当てれば、音丸が首に巻いてくれた珊瑚色の手拭いが手に触れて、いよいよ頬が熱くなったのだ。  なのに高座で音丸と龍平が戯れているかのような濃厚な〝夢の酒〟を聞かされたのだ。またもや礼司は自分一人が除け者になって音丸と龍平の濃密な交わりを天井の隅から眺めている気分になるのだった。全くもって夢の酒である。  礼司の疎外感と裏腹に会場は音丸の噺に大笑いして盛り上がっていた。会場を温め次の出演者に引き継ぐ開口一番の役目は充分に果たしたのだった。  礼司は少々浮かない顔で拍手をしながら高座から下りる音丸を見送った。どういうわけかジジババ四人も戸惑ったように顔を見合わせながら拍手をしているのだった。 「あの噺はもともと〝雪の瀬川〟だったんだろう?」 「八代目文楽(ぶんらく)が〝夢の酒〟に改作したんだよ。〝橋場の雪〟から枝分かれしたんだ。ネタがつくどころか同じ噺だよ」  仲入りの間に禿げの爺様と白髪の爺様がぼそぼそ話し合っていた。  礼司も後で調べて知ったのだが、滑稽噺の〝夢の酒〟は、人情噺の〝雪の瀬川〟が改作を重ねて出来たものだった。  昭和十年に八代目桂文楽が〝夢の酒〟として発表したが、別ルートでやはり滑稽味のある〝橋場の雪〟という改作にもなっている。明治時代に三代目柳家小さんの速記録があるから、こちらが先行だろう。  落語は口伝(くでん)だから歴史もそんな風にざっくりとしているのだ。長い人情噺だったのが受け継がれる間に短い滑稽噺に改作された物も案外に多い。 〝雪の瀬川〟に端を発して〝橋場の雪〟と〝夢の酒〟に別れたが、どちらも令和の今も寄席にかけられている。  もっとも客が落語を聞いて楽しむ分には別に知らなくてもいい歴史である。  そして知らなくてもいい歴史はまだあるのだった。 「あの……もしかして音丸さんが休業する前にやった……高座で絶句した噺って?」  礼司は最後まで言えずに高座を指差してしまった。  けれど二人の爺様はすぐに察してそれぞれ頷いていた。 「〝夢の酒〟に入って〝あなた起きてください〟って言ったきり……」 「ぼんやり客席を見回して、どんくらいたったかなあ? あの台詞を言っちまったんだよ」 「シャレにならんよ。あの台詞で休業に入ったらもう二度と……」  ハンカチで手を拭きながらトイレから戻って来た赤毛の婆様が、 「やめてちょうだい。そんな話を松橋さんに教えなくていいの。もう私は思い出したくもないわよ」  とハンカチを目に当てて爺様方を叱っている。  実は礼司はそれも噂で聞いていた。 〝あの台詞〟とは八代目桂文楽の有名な台詞である。老齢による記憶の衰えで〝大仏餅〟で登場人物の名前が出て来なくなり、 「勉強し直して参ります」  と言って高座を下りた。そして再び高座に上がることなく亡くなった。  音丸も高座で台詞が飛んでしばし呆然としていたが、 「申し訳ございません。勉強し直して参ります」  と静かに頭を下げると悄然と高座を下りたという。  その姿を「幽霊のようだった」と評する者までいた。音丸マニア達は高座を下りたきり休業に入った音丸に八代目文楽の最期を重ねずにはいられなかったのだろう。  柏家音丸は二度と復帰しない。高座には戻って来ない。ジジババ四人組も菅谷百合絵も絶望の底に沈んだに違いない。  続いてトイレから戻って来た青髪の婆様は赤髪の婆様を慰めている。いきなりお通夜の雰囲気である。  そこでちょうど後半が始まったのだった。 〝四派連合の会〟のトリは落語芸能協会の会長でもある真打の錦家福丸(にしきやふくまる)師匠だった。  何とこの師匠も「ねえ、あなた起きてくださいな」で噺が始まった。  けれど、 「起きて仕事に行ってくださいな」  と続いた途端に会場がどよめいた。  人情噺の名作と言われる三遊亭圓朝・作の〝芝浜〟である。本来は年末や冬場にやる噺だが、こういった特別興行なら季節を問わずかける噺家も多い。  満員の観客が固唾を飲んで福丸師匠の一挙手一投足を見守っていた。だが礼司の両脇のジジババ達は確かに聞いてはいるのだが、相変わらず浮かない顔をしていた。 「よそう。夢になるといけねえ」  最後の台詞が終わる。  客席から拍手が鳴り響いた。万雷の拍手の中、高座の福丸師匠は座布団を外して深々とお辞儀をした。  静かに緞帳が下りると、やがて追い出し太鼓が鳴り響く。 「今夜はみなさんで軽く一杯やりませんこと?」  口を開いたのは一番端の席にいた菅谷百合絵である。ジジババ達は否やはないようで頷きながら一斉に礼司を見るのだった。 「松橋さんもいかがですか?」  代表するように百合絵に問われても、 「いえ、僕お酒は駄目な体質で……」 「いいのよ。下戸でもいくらでも食べる物はあるんだから」  礼司の言葉が終わる前に青髪の婆様にまた膝を叩かれる。 「呑んだふりしてみんな盃洗(はいせん)に空けちゃえばいいのよ」  と赤毛の婆様には肩を叩かれるのだった。  総勢六名でやって来たのは、細い階段を下りた地下にある居酒屋だった。そしてまた出て来たのは唐揚やフライドポテトである。日本人はジジババまで唐揚げが好きなのか⁉  礼司には腹下し確実なつまみである。仕方なくシーザーサラダやピクルスを頼む。意識高い系女子か?  音丸ファンの一同はかなり切羽詰まった様子だった。しまいには酔った百合絵が、 「とにかく、何があっても(あたくし)は音丸ファンサイト〝音丸通信〟は止めませんわよ!」  と決意表明をする程に大した事態だったらしい。  烏龍茶を飲みながら礼司が理解したのは、この興行で音丸が〝夢の酒〟をやるのはあり得ない選択だったそうである。 「シャレにならんよ。福丸師匠の十八番は〝橋場の雪〟だよ。〝夢の酒〟とまるで同じ噺だよ」 「トリの師匠が得意な噺を開口一番がやっちまうなんて、とんでもない失態だぜ」  仲入りで二人の爺様が〝夢の酒〟や〝橋場の雪〟が〝雪の瀬川〟から派生した同じような噺だと確認し合っていたのは、こういうことだったのだ。 「あの噺で絶句して休業してしまった音丸さんが、復帰してあんなに見事にやり遂げて……私はこんなに誇らしい事はないと思いましたのよ」 と喜ぶと同時に、がっくりとうなだれる百合絵である。 「ただ……ただ場所があそこでさえなければ」  一同は沈痛な面持ちで揃って頷くのだった。 「せめて独演会でやるべきだったわ」 「あそこでやるのは最低最悪の選択よ」 「また謹慎にでもなったらどうするんだ」  口々に言う古参ファンに礼司は食って掛かるように言っていた。 「謹慎なんてあるんですか⁉」  ジジババの解説によれば、確かに礼儀知らずなだけで謹慎になることはない。ただ以前から芸協の福丸師匠は音丸を目の敵にしていたという。 「俺が思うに、あの噂……音丸さんが咲也を襲ったってデマも福丸が流したんじゃねえかな。 同じ芸協の柾目家逸馬(まさめやいつま)を庇って、音丸さんに濡れ衣を着せやがって」  と息巻く禿げの爺様を、 「憶測でものを言わないの」  赤毛の婆様が軽くいなしている。  それはともかく。  落語芸能協会の会長である錦家福丸師匠なら寄席の席亭(社長)を丸め込むのは簡単である。 「音丸の出る寄席にはもう出ない。芸協の若手も出さない」などと言えば、席亭としては休業していた二つ目などより古参の人気真打を選ぶに決まっている。  寄席が音丸を出入り止めにしたと知れば、他の興行主も仕事を振らなくなり音丸は干される。というのが皆の意見だった。  他にもいろいろ礼司の(たぶん龍平も)知らない内輪話を聞いたのだが、最も心をえぐったのは百合絵が言い放った言葉だった。 「私は到底納得できませんわ。音丸さんの意志とは思えませんもの。  きっと誰かに命令されたんだわ!   必ずあそこであの噺をやれと命じられたに違いありませんわ!」 「陰謀論かい?」「芸協の?」「いやCIAかも知れんぞ」など皆は酒の肴にしていたが、礼司は胸にぐさりと鋭い刃物を突き立てられたような気がした。

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