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第八章 1 絶頂の果て

第八章 1 絶頂の果て  夕刻に着いた盛岡の街だがまだきつい日差しが残っていた。とりあえず駅前のビジネスホテルにチェックインする。  そこから少しばかり歩くと音丸の定宿がある。礼司の宿泊先とは比べ物にならない豪華な老舗ホテルである。一般的には落語家の巡業は最安値の宿を使う。それこそ礼司が泊まるビジホのような場所である。  けれど盛岡のこの老舗ホテルは先々代のオーナーが三代目柏家仁平(かしわやにへい)の大ファンだったのだ。このため四代目仁平の今も一門全員を優待価格で泊めてくれるのだ。吝嗇家の公演主催者がこれに目をつけないわけがない。ツアー初日だけここを宿に選んだわけである。  昨夜の飲み会で百合絵から聞いた情報である。  老舗ホテルらしくエントランスにはバンケットルームで催されるイベントの告知が並んでいる。ディナーショーや日舞の発表会、そして夏休みの親子向けクラシックコンサートなども催されるらしい。  中でも礼司の目を引いたのは〝四代目柏家仁平一門落語会〟のポスターだった。  来年の正月開催らしいが〝音丸通信〟のスケジュール表にも掲載がない。まだ全国的には情報解禁されていないのかも知れない。百合絵も知らない先取り情報に少しばかり得意になる。  ホテルのロビーをぶらついてからティールームでひどく高いコーヒーを飲む。スマホを出すと、来春のホテルでの仁平一門会について〝音丸通信〟に投稿した。  しばらくそこに留まったが落語会の出演者が現れる様子もなかった。実は盛岡入りした音丸と会えないかと期待してやって来たのだが、そんな偶然はあるはずもなかった。  音丸からの連絡といえば余一会の後に送ったメッセージに明け方既読がついただけである。  新幹線の中でそれを知って礼司は更に、 〈盛岡のホテルで音丸さんは何号室に泊るの?〉  と送信したが未だ既読も付いていない。  どうせ打ち上げで散々呑んで夜明かしして新幹線に乗り込んで、ちらりとスマホチェックしただけで眠りこけたのだろう。  空のコーヒーカップを下げられた後、礼司は悄然と席を立ったのだった。  県民ホールの落語会がはねた後、礼司は再び老舗ホテルに取って返した。  迷うことなくエレベーターホールに向かい十二階を目指す。 シックな絨毯が敷かれた廊下にはずらりと部屋の扉が並んでいる。ここでも礼司は迷わずに1229号室に辿り着くとドアチャイムを鳴らした。  しばらく待つとドアが開いた。隙間から石鹸の香りやバスルームから漂う湯気まで香って来る。シャワーを浴びていたらしい。バスローブを着た音丸がドアの隙間に立ち尽くしている。 「来ちゃった」  こぼれる笑みを隠しようもなく、にやにやしている礼司(龍平)である。白いワイシャツの襟元には赤いネクタイが結んである。今やどす黒く鬱血した首の締め痕は白いカラーの下に隠れている。 「音丸さん、全然スマホ見てないでしょう? 部屋番号訊いたのに教えてくれないんだもん」  言いながらドアの隙間から室内に身体を滑り込ませる。  よほど驚いたのか音丸は洗い髪からぽたぽた水滴を垂らしながら、ぼんやりと礼司が部屋に入るのを眺めている。 「偶然フロントで弦蔵師匠に会ったから訊いたんだ」  というのは半分本当で半分嘘である。  夕刻ホテルの玄関を出て県民ホールに向おうとした時だった。玄関先に弦蔵師匠を発見したのだ。  錦鯉のアロハシャツに白いコットンパンツそしてビーチサンダルおまけにグラサンの男がドアマンに慇懃無礼に立ち入りを止められていた。まるで暴力団員のようだが、本日出演の真打、音羽亭弦蔵(おとわていげんぞう)なのだった。 「弦蔵師匠じゃないですか! 今夜はこちらにお泊りなんですか?」  ここぞとばかりに声をかけ、ベルボーイよろしく弦蔵師匠が引いているルイヴィトンのスーツケースを預かるとフロントまで案内したのは龍平だった。 「僕、これから県民ホールの落語会に行くところだったんですよ。こんな所で師匠にお会い出来るなんて感激だなあ」  などとお愛想を言っているのも、もちろん礼司ではなく龍平である。  フロントのホテルマンは既にこの落語家と顔見知りらしい。 「お待ちしておりました、弦蔵師匠。皆様もうお着きになって、県民ホールにおでかけになりましたよ」  と客のドレスコードに触れることもなく親し気に挨拶するのだった。  弦蔵師匠が、 「音丸の隣の部屋にしてもらえる?」  と頼めば残念そうに首を横に振るのだった。 「申し訳ございません。今夜は少々混みあっておりまして、音丸様とは同じ階ですが少し離れたお部屋になってしまいます」 「残念だな。俺は……1235室か。音は?」 「ええと、1229号室でございます。ちなみに師匠のお隣はマジックの桜ボンボン先生です」 「あいつは呑まねえからつまんねえんだよ」  などという会話を聞きながら龍平は静かにその場を立ち去るのだった。部屋番号さえ知れれば後はどうでもいいらしい。ガラスの自動ドアが閉まる後ろで、 「あれ、さっきの人は?」  という弦蔵師匠の怪訝そうな声を聞いたのは礼司だけだった。  ちなみにこの師匠のがっちり短躯はゲイ好みだが、当人はばりばりのノンケである。だから龍平は弦蔵師匠と音丸の親しさにあまり嫉妬しないようだった。  かくして盛岡の老舗高級ホテルの1229号室で二人は存分に抱き合うのだった。  いやその前にバスルームで、礼司は最も気になることを訊いていた。 「余一会(よいちかい)で〝夢の酒〟やったの、叱られなかった?」  広々としたバスタブに二人で入って語らっていた。 「楽屋に先輩方が勉強にいらしてたから……」  音丸は口が重い。今夜は軽妙な〝転宅〟を語ったのだが、高座とは別人のように訥々と語るのだった。 〝勉強に来る〟とは、聞きに来ることである。  プロの落語家は客席から高座を見ることは許されていない。他の落語家の噺を聞きたければ、楽屋に来て袖から見るしかないのだ。  四派連合会のように錚々たるメンバーが揃えば、勉強に来る落語家もかなりの古参まで揃っている。  それら古参のうち落語家協会の噺家達は、音丸が〝夢の酒〟に入るなり福丸師匠に頭を下げてくれたのだ。口を揃えて謝り倒したらしい。  あまつさえ高座から下りた音丸を大袈裟なまでに叱り飛ばした。 「休業ボケか⁉ 開口一番の分際で福丸師匠の十八番をやる奴があるか‼」 「おまえは〝夢の酒〟と〝橋場の雪〟が同じ噺だってことも知らないのか⁉ 勉強不足にも程がある‼」 「福丸師匠に申し訳ないと思わんのか⁉」  もちろん福丸師匠に見せる為である。  すかさず福丸師匠に向かって深々と頭を下げる音丸を足蹴にする先輩までいたという。 それを羽交い絞めにする後輩達……と、ここまでされれば福丸師匠としても、 「いや、弦蔵さん。そこまでしなくとも……音丸はもっと勉強しなさい」  と逆に庇わざるを得ない。 「弦蔵師匠のいつもの荒技だ」  ちょっとした小咄のように状況説明をする音丸に礼司も思わず聞き入ってしまう。 「打ち上げには仁平師匠も駆けつけてくださって頭を下げてくださった」 「じゃあじゃあじゃあ……それでもう収まったの?」  向かい合ってバスタブに入っていた礼司だが、いつの間にか音丸に背中を預けて湯につかっていた。音丸はその身体を抱えながら、またパーマ頭の上で首を横に振っているらしい。頭頂部が何ともこそばゆい。 「この仕事が終わって東京に戻ったら、また師匠ともども福丸師匠のお宅にお詫びに伺う予定だ」 「ふうん……」  と自分の臍の上で組まれた音丸の両手を玩ぶ礼司である。 「僕、落語家がそんなに面倒臭いって知らなかった。ごめんね」  同じく礼司の手に指を絡めてもてあそんでいた音丸は「おまえ」と言いかけて、しばし言い淀んで「君」と言い直した。思わず吹き出してしまう。 「君って誰よ?」  と音丸の顎に軽く後頭部をぶつける。答えず音丸は礼司の首回りを指先でそっとなぞっている。腰紐で絞めた痕が赤からどす黒く変色している輪である。 「君は悪くない。私の覚悟が足りなかっただけだ。噺家としての……」 「僕の恋人としての気持ちの方が大きかった?」  得意気に振り向いたのは礼司ではなく龍平だろう。  見上げた切れ長の瞳は戸惑うようにきょろきょろしている。そして「どうだかね」と曖昧に呟くのだった。  振り向いて礼司は音丸の唇に唇を合せる。湯船の中で抱き合って口づけを交すのだった。    老舗高級ホテルのダブルルームである。部屋も広々としておりバスルームを出た先には応接セットがある。  テーブルにはウェルカムフルーツからドリンクまで揃っていた。〝柏家音丸様〟と社長直筆のウェルカムカードまで添えてある。 「落語家の旅仕事っていつもこんな豪華な部屋に泊るんだ?」  そうではないと知りながら龍平は意地悪な目つきで音丸を見る。裸にバスタオルを巻いただけである。ペリエを空けて一口飲んで、 「いや、普通は……」  と答えようとする音丸に瓶を手渡す。受け取る音丸の目はテーブルのシャンパンに注がれている。 「アルコールは後でね」  言われておとなしくペリエを飲みながら口づけを繰り返す。  広いダブルベッドの片隅には礼司が脱ぎ捨てたスーツやワイシャツがつくねてある。その上には赤い蛇のようにネクタイがとぐろを巻いている。

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